豊臣秀吉が「七奉行」を「五奉行」に減らした理由とは? 政権安定か、それとも権力集中か?
豊臣秀吉が晩年に構築した政権体制は、幼い秀頼の時代を支えるために五大老と七奉行という二つの重要な役職を設けました。しかし、秀吉の最晩年、この「七奉行」が突如として「五奉行」へと変更されたことは、歴史研究者の間で長く議論の的となってきました。一体なぜ、秀吉はこの変更を行ったのでしょうか? その背景には、豊臣政権の安定を図るための深謀遠慮があったのか、あるいは別の意図があったのか、その謎に迫ります。
「七奉行」とは? 政権運営の実務を担った秀吉の忠臣たち
まず、「七奉行」とは、秀吉の親衛隊的な役割を担い、政務の実務を執り行うために選ばれた7人の大名を指します。彼らは秀吉の信頼厚い家臣であり、五大老が天下の大局を議論する一方で、内政、外交、財政といった具体的な政策を推進する実務部隊でした。
七奉行の顔ぶれ(初期)
- 石田三成
- 増田長盛
- 長束正家
- 浅野長政
- 前田玄以
- 小出吉政
- 堀尾吉晴
彼らはそれぞれの得意分野を活かし、秀吉の号令のもとで豊臣政権を支えていました。
「五奉行」への変更の背景:秀吉の晩年と政権の思惑
七奉行が五奉行へと変更されたのは、慶長3年(1598年)の秀吉死去の直前、もしくは死去とほぼ同時期と考えられています。この時期、秀吉は病に伏し、自身の死期を悟っていました。そのような状況下での体制変更には、いくつかの理由が推測されます。
- 体制の簡素化と意思決定の迅速化病床にあった秀吉は、自身が不在となった後の幼い秀頼の政権運営を案じていました。7人という人数では、意見の調整に時間がかかったり、責任の所在が曖昧になったりする可能性があったかもしれません。人数を5人に絞ることで、より効率的で迅速な意思決定を促し、政権運営の安定化を図ろうとしたと考えられます。
- 権力の集中と中枢の強化七奉行の中から、特に有能で秀吉の信頼が厚かった人物に権限を集中させることで、政権の中枢をより強化しようとした可能性も指摘されています。五奉行として選ばれたのは、石田三成、増田長盛、長束正家、浅野長政、前田玄以の5人です。特に石田三成は、秀吉の政務を代行するほどの絶大な信頼を得ていました。彼らに権限を集中させることで、幼い秀頼を支える体制をより強固にしようとしたのかもしれません。
- 特定の人物の排除(あるいは役割変更)七奉行から外された小出吉政と堀尾吉晴は、その後も豊臣政権下で重要な役割を担いますが、奉行という実務を離れることになりました。彼らが外された理由は明確ではありませんが、これは彼らの能力不足というよりも、上記のような体制の簡素化や、役割の再分担の一環であった可能性が高いでしょう。
- 「五大老」とのバランス五大老という強力な大名集団が存在する中で、実務を担う奉行衆の人数を減らすことで、五大老と五奉行という対等な数にすることで、一種のバランスをとろうとしたという見方もできます。これは、秀吉が異なる勢力間の均衡を重視する、巧妙な政治手腕の一環であった可能性を示唆しています。
変更の結末:関ヶ原の遠因となった「権力闘争」
秀吉は、この五大老・五奉行体制によって豊臣家の永続を図ろうとしましたが、皮肉にもその体制は、彼の死後、豊臣家を揺るがす権力闘争の舞台となってしまいます。特に、五大老筆頭の徳川家康と、五奉行の中心である石田三成の対立は激化し、最終的に関ヶ原の戦いへと繋がっていきます。
七奉行から五奉行への変更は、秀吉が豊臣政権の未来を案じて行った苦渋の決断だったかもしれません。しかし、結果的にこの変更が、内部の権力構造に影響を与え、後の大乱の遠因の一つとなった可能性も否定できません。
五大老と五奉行のそれぞれの役割などについては以下にまとめました。
項目 | 五大老 | 五奉行 |
---|---|---|
役割 | 政権監督・軍事外交 | 政務執行・実務官僚 |
権限 | 広範・政策決定 | 実務担当・報告義務 |
メンバー | 有力大名(戦国武将) | 豊臣政権の官僚的側近 |
対立構造 | 徳川家康を中心に実権掌握へ | 石田三成が家康を牽制し対立 |
最終的結果 | 家康が政権を乗っ取る(江戸幕府) | 三成敗北、奉行制度は消滅 |
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