【転生JKが語る!】松平容保だった私が、自分の人生をざっくり解説してみた件。

松平容保

こんにちは☆彡
現在、都内の某女子高に通ってるふつーのJK……ではないです。
実はわたし――幕末の会津藩主・松平容保だった前世を持ってます(ガチ)

なんで私が徳川家への忠義でボロボロになった武士の記憶を持ってるのか謎だけど、
せっかくなので、自分の前世の人生をざっくり振り返ってみようと思います!


松平容保 年表(1836年〜1893年)

年(和暦)年齢出来事
1836年(天保7年)0歳高須松平家に生まれる(父:松平義建)
1843年(天保14年)7歳第12代将軍・徳川家慶に初御目見え(将軍家との縁が強まる)
1846年(弘化3年)10歳元服。将軍家より偏諱を受けて「容保」と名乗る
1852年(嘉永5年)16歳会津藩主・松平容敬の養子となり、会津藩第9代藩主に就任
1862年(文久2年)26歳幕命により京都守護職に任命され、京都に入る(新選組を支援)
1863年(文久3年)27歳八月十八日の政変で長州藩を京都から追放。尊王攘夷派と対立を深める
1864年(元治元年)28歳禁門の変で長州勢を破る(長州藩との敵対が決定的に)
1867年(慶応3年)31歳徳川慶喜が大政奉還。政局が急変し、会津は孤立化へ
1868年(慶応4年/明治元年)32歳鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北 → 会津藩が賊軍認定戊辰戦争・会津戦争が始まり、鶴ヶ城で籠城戦(白虎隊の悲劇も)
1868年11月32歳会津藩が降伏。容保は謹慎を命じられる(処刑は免れる)
1873年(明治6年)37歳息子・松平容大に家督を譲り、自らは隠居。のちに日光東照宮の宮司に就任
1893年(明治26年)57歳病により死去。墓所は会津若松市の院内御廟(阿弥陀寺)など

① 名門すぎる生まれで人生ハードモード開始

1836年、高須松平家(尾張徳川家の分家)に生まれました!
いわゆるエリート武士の家系です。いまの偏差値80くらいの家。

でもね?
生まれてすぐ、「会津藩に養子行ってくれ」って言われて、
田舎の激務ポジション(福島の会津藩主)に転勤確定。

これが私の忠義ロードのはじまり。


② 京都守護職?無理無理、って何回も言ったのに…

1862年、「京都がヤバいから治安頼むわ!」って幕府から言われるの。
テロ多発、放火横行、暗殺だらけの魔界都市・京都。
いや無理ゲーじゃん……って何度も断ったのに、

家臣「会津武士は断りません!」
幕府「断ったら忠義に反するぞ?」
わたし「……はい」

ここからわたしの“終わりの始まり”です。


③ 新選組を支援→逆に恨まれる

京都では新選組を支援して、
過激派(長州や土佐)を取り締まって治安回復に貢献!

けどこれ、長州からは「恨みリスト1位」になるきっかけで、
1864年の「禁門の変」でガチ対決したら、もう修復不可能。

結果的に、これが会津藩を「賊軍」に落とす布石になっちゃった……


④ 鳥羽伏見→会津戦争で地獄を見る

1868年、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が大敗。
私たち会津藩は、完全に徳川サイドで泥舟に乗ってたので……

→ 「朝敵」認定
→ 戊辰戦争に巻き込まれる
→ 鶴ヶ城に籠城(=会津戦争)
→ 食料尽きる
白虎隊(15〜17歳の少年たち)が自刃
→ わたし泣く

もうほんと地獄。
でも降伏するまで、私は逃げなかったよ。


⑤ まさかの生存ルート!?→日光で隠居

あれだけ大敗して民も犠牲になったのに、
私自身は……まさかの処刑ナシ。

徳川のシンボルである日光東照宮の宮司として
ひっそり明治を生き抜き、57歳で人生終了。

忠義で燃え尽きた人生でした。


⑥ 転生JKとして生き直す今のわたし

そんな前世を持つわたし、今はJKとして平和に生きてます。
会津若松に修学旅行で行ったとき、なぜか泣きそうになったのは内緒。

「忠義なんて今の時代じゃ意味ない」って言われるけど、
わたしは信じてる。

不器用でも、信じた道を貫くことは、美しい。

たとえ報われなくても、誰かがいつか見てくれるから。


最後に一言!

歴史で「松平容保」って出てきたら、
「忠義バカだったけど、筋は通してた人」って覚えてくれたら嬉しいです。

JKに転生した松平容保でした☆彡

またね〜!


※当ブログ【歴史ファンの玄関:れふかん】は、本人に語らせるスタイルの歴史解説が持ち味となっております。

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