摺上原〈すりあげはら〉の戦い(1589年) とは
- 天正17年(1589年)6月5日、福島県郡山市付近で発生
- 伊達政宗 vs 蘆名義広の奥州覇権を懸けた決戦
- 蘆名氏は佐竹・相馬と同盟、政宗包囲を図る
- 伊達軍:約2万、蘆名軍:約2万〜3万(諸説)
- 開戦当初は蘆名優勢も、伊達軍が側面攻撃で逆転
- 蘆名軍総崩れ、義広は会津を放棄
- 政宗は会津を掌握し、奥州制覇に大きく前進
- 翌年の秀吉の小田原攻めで拡大政策は停止
以下、なんjのコメント
1: 風吹けば名無し
伊達政宗と蘆名義広の奥州ガチ決戦やな。
2: 風吹けば名無し
背景は1588年の伊達・蘆名・相馬の三つ巴やったな。
3: 風吹けば名無し
蘆名義広は佐竹・相馬と同盟組んで政宗包囲してた。
4: 風吹けば名無し
政宗は人取橋での雪辱を晴らすチャンスやったんや。

5: 風吹けば名無し
1589年6月5日、摺上原で両軍激突。
6: 風吹けば名無し
伊達軍は約2万、蘆名軍は2万~3万って説あるな。
7: 風吹けば名無し
数は互角かやや蘆名有利やったけど、士気は政宗側が上やった。
8: 風吹けば名無し
政宗は鉄砲隊と騎馬隊を組み合わせて正面突破狙ったらしい。
9: 風吹けば名無し
蘆名軍は最初押してたけど、側面崩されて総崩れや。
10: 風吹けば名無し
政宗が甲冑着て先頭立ったって逸話あるけどカッコ良すぎやろ。
11: 風吹けば名無し
この勝利で政宗は会津を丸ごと手に入れる。
12: 風吹けば名無し
奥州制覇まであと一歩ってとこまでいったよな。
13: 風吹けば名無し
なお翌年、秀吉の小田原攻めで全部ストップ。
14: 風吹けば名無し
この戦い無かったら政宗の全盛期もっと遅かった説ある。
15: 風吹けば名無し
摺上原って地名は福島県郡山市あたりやな。
16: 風吹けば名無し
蘆名義広はこの敗戦で一気に没落した。
17: 風吹けば名無し
蘆名氏って元々は会津の名門やのに一戦で終わるの悲しい。
18: 風吹けば名無し
政宗は勝ったけど、その勢いを秀吉に利用されるのが歴史の皮肉。
19: 風吹けば名無し
この直前まで政宗は黒川城(会津若松)奪う準備してたらしいな。
20: 風吹けば名無し
摺上原の戦いは伊達家家臣団の結束も強めた戦いや。
21: 風吹けば名無し
鬼庭綱元とか片倉景綱とか有能家臣が活躍してるのもポイント。
22: 風吹けば名無し
蘆名側も名将いたけど、全体の統率が取れんかったのが敗因やな。
23: 風吹けば名無し
政宗はこの勝利で「奥州王」感が一気に増した。
24: 風吹けば名無し
でもこの時点で政宗はまだ20代前半やぞ。怖すぎやろ。
25: 風吹けば名無し
会津ゲットで石高100万石説まであるんやっけ?
26: 風吹けば名無し
秀吉の惣無事令に引っかかるのもこの頃やな。
27: 風吹けば名無し
摺上原の勝利で調子乗った説あるけど、それくらいの大金星や。
28: 風吹けば名無し
この戦い、伊達軍が圧勝したのに死者はかなり少なめらしい。
29: 風吹けば名無し
歴史的には「政宗のピーク」って見られること多いな。
30: 風吹けば名無し
摺上原→会津掌握→小田原参陣っていうジェットコースター展開好き。

※なんJのコメントはときどき時代小説や時代劇や思い込みを史実と混同している場合があるから気をつけてね! 最後にクイズも用意しているよ!
