ニコライ2世の権威と信頼の失墜

1917年のロシア。ニコライ2世の王権はすでに風前の灯だった。独裁的な政治、第一次世界大戦による敗戦と物価高、そして宮廷に入り込んだ怪僧ラスプーチンの存在が、皇帝一家の威信を徹底的に食い潰していた。「ニコライ2世は20世紀の現実をまるで理解していなかった」と歴史家は断言する。実際、彼は親族にこう漏らしていたという――「代議制など認めない。神に与えられた民にとって有害だからだ」。
民衆の不満(第一次ロシア革命)
だが民衆の怒りはすでに煮えたぎっていた。1905年の「血の日曜日」では、平和的な抗議者が銃撃で倒れた。約束されたはずの改革も実行されず、社会の不満は抑えきれなくなっていった。この状況について「国民を撃ち殺しておいて改革もせず、よく“父なる皇帝”などと呼ばせていたものだ」とある歴史愛好家は言う。

怪僧ラスプーチンの悪行の影響
追い打ちをかけたのがラスプーチンだった。血友病を患う皇太子を救えると信じ込んだ皇后に取り入り、次々と大臣人事に口を出す。酒と女に溺れる姿は風刺画やゴシップ紙の格好のネタになった。「皇后と関係しているのでは、なんて噂も飛び交った。当時の民衆からすれば“皇帝は怪僧に操られている”と見えた」(歴史ジャーナリスト)。結局、ラスプーチンは王党派の貴族らに暗殺されるが、もはや皇帝の権威は地に落ちていた。


三月革命(二月革命)
1917年3月、ペトログラードでパンを求める暴動が発生し、駐屯兵までもがこれに加わった。皇帝は退位(のちに家族とともに処刑される)を余儀なくされ、300年続いたロマノフ王朝は崩壊した。代わって成立した臨時政府は選挙による正統性を欠き、経済も戦争も立て直せない。「ツァーリ(皇帝)を倒したのに何も変わらない。人々がそう感じるのに時間はかからなかった」と歴史家は語る。

労働者や兵士の評議会(ソビエト)の活動の活発化
この間、労働者や兵士の評議会=ソビエトが各地で結成されていた。工場労働者は1日8時間労働や労組結成の自由を訴え、農民は土地の分配を求めた。女性もまた参政権を要求し、帝国内の少数民族は独立を叫んだ。「ロシア全土が不満の坩堝だった。臨時政府にそれを処理する能力などなかった」(大学研究者)。
レーニンの帰還

こうした中で頭角を現したのが、亡命先から戻ってきたウラジーミル・レーニンだった。ボルシェビキは「パンを!平和を!土地を!」と簡潔なスローガンを掲げ、疲弊した民衆の心をつかむ。「複雑な理論は要らない。空腹の民衆にとって欲しいのは飯と土地、それだけだった」(歴史ウォッチャー)。
11月革命(10月革命)
1917年11月、ボルシェビキは赤衛兵を動かし、冬宮を襲撃。臨時政府は事実上崩壊し、ロシアは「ソビエト共和国」を名乗る新体制に移行した。クーデターはほぼ無血だった。「あまりに呆気なく権力が転がり込んだので、後年“偉大な革命”という言葉が上塗りされた」(歴史評論家)。
レーニンは選挙で敗れて独裁を開始

しかし、選挙での支持は思ったほど伸びず、制憲議会もボルシェビキに有利ではなかった。レーニンは武力で議会を閉鎖し、党独裁を確立する。すぐさま第一次世界大戦から撤退を決めたが、その代償は広大な領土の喪失だった。
ロシア革命の光と闇
「結局、皇帝の独裁を倒して得られたのは、別の独裁だった。名前が変わっただけだ」と辛辣に語る研究者もいる。だが当時の労働者にとって、レーニンが打ち出した8時間労働制や工場の国有化は確かに希望の光だった。
ソビエト政権の誕生
こうして始まったソビエト政権は、内戦と外国干渉を経て1922年にソ連として結実する。ニコライ2世の不人気とラスプーチンの醜聞から始まった革命は、ついに新しい巨大国家を生み出したのである。