教科書(高校世界史B)の内容+αのフルカラーまとめです。
古代メソポタミア文明の場所
メソポタミアとは古代ギリシア語で【川の間の土地】という意味です。
メソポタミアとはその名の通り二つの巨大な川、ティグリス川とユーフラテス川の間にありました。
位置的にはティグリス川が上でユーフラテス川が下にあります。(下の地図参照)
メソポタミアを現在の場所に当てはめるとほぼ【イラク】に重なります。
また、メソポタミアからシリア・パレスチナにかけての地域のことは【肥沃な三日月地帯】と呼びます。
メソポタミアはエジプトなどと比較すると【広大な平野が広がっていた】ため【開放的な地形】であり【さまざまな民族が侵入】して争いを繰り広げ、諸民族が目まぐるしい興亡を繰り返しました。
古代メソポタミアの民族の興亡。
古代メソポタミアでは5つの勢力が順番に覇権を握っていきました。
大学入試などではこの5つの民族に関しての情報を覚えていれば、メソポタミア文明を得点源にすることができます。ですから頑張って覚えていきましょう。
メソポタミアを支配した5大勢力の覇権の順番。
シュメール人→アッカド王国→ウル第3王朝(シュメール人)→バビロン第1王朝(アムル人)→ヒッタイト王国(ヒッタイト人)
老若男女の方に向けた学習ページですが、特に大学受験生の方は太字を覚えていきましょう。
最初の支配者シュメール人。
・シュメール人。【紀元前3000年頃~】
メソポタミアに都市国家を建設。(メソポタミアの統一はしていない)民族系統は不明。
都市ごとに守護神を祀るジッグラトを建設。
ウル・ウルク・ラガシュなどのシュメール人の都市国家は有名。
(*各都市国家の位置は下地図を参照、ラガシュは地図に記載なし)
ウルクは最古の都市のひとつで、楔形文字の原型になる最古の絵文字が出土している。伝説上のウルクの王ギルガメシュは『ギルガメシュ叙事詩』などで有名。
ギルガメシュ叙事詩は『旧約聖書』のノアの箱舟伝説の元となっている。
ウルは王墓に見られる高度な物質文化を発展させた。
神権政治が行われる。
太陰暦・占星術。六十進法を使用。
車軸やろくろの技術が生まれ、印章も使用。印章には絵文字が刻まれた。のちに楔形文字が使用されるようになる。(粘土板に記述)
青銅器を使用した。
各都市間の交易もさかんで、交換手段として『銀』が用いられる。
シュメール人の都市国家はアッカド人に征服されて滅亡。
2番目の支配者アッカド王国。
・アッカド王国【紀元前24世紀頃~】(下地図の茶色部分が支配地)
セム系アッカド人が建国。
アッカド市の所在地は現在も不明。
アッカド語を使用。
サルゴン1世が初めてメソポタミアを統一。
メソポタミア初の統一国家。
ナラム=シンが最盛期の王。【四方世界の王】
異民族(不明)の侵入で滅んだとされる。
3番目の支配者ウル第3王朝
・ウル第3王朝【紀元前2114頃~紀元前2004頃】
ウルに都を置く(ウルの位置は上記の地図を参照)
ジッグラトを建設。(ジッグラトは古代メソポタミアの各都市の主神殿に建設されたと考えられている)
シュメール人が建国。
ウル=ナンム法典が成立。現存する世界最古の成文法。ウル第3王朝の創始者とされるウルナンムが発布した。
メソポタミア全域を支配した。
シュメール人の王家の家紋は十六菊家紋。
最後に栄えたシュメール人の王朝。これ以後シュメール人は歴史の表舞台から姿を消す。
エラム人の侵入により滅亡(*バビロン第1王朝がウル第3王朝を滅ぼしたわけではない。)
4番目の支配者バビロン第1王朝。
・バビロン第1王朝(古バビロニア王国)【紀元前19世紀初め頃~紀元前16世紀初め頃】
セム系アムル人(アモリ人)が建国。
ハンムラビ王がメソポタミアを統一。
ハンムラビ王の治世が最盛期。
バビロンに都を置く。
バビロンはユーフラテス川の北側に位置。ウルクよりずっと上流側にある。『バビロン』の意味は『神の門』
マルドゥク(神)をバビロンの都市神とする。
ハンブラビ法典。ハンムラビ王がシュメール法典の集大成として成立させる。同害復讐法の原則に従っているが、身分により刑罰に差があった。
ハンムラビ王は治水事業でも成果を上げた。
ヒッタイトにより滅亡。
5番目の支配者ヒッタイト。
・ヒッタイト【紀元前17世紀前半頃~紀元前1200年頃】
ヒッタイトはインド=ヨーロッパ系語族。
小アジア(アナトリア)を支配(≒現在のトルコ)。なので厳密にはメソポタミアを支配したとはいえない。
ムルシリ1世がバビロン第1王朝を滅ぼす。
バビロン第1王朝を滅ぼすだけ滅ぼすが、その後バビロン一帯をヒッタイトが支配することはほぼなかった。その理由は現在も不明。
最古の鉄製武器と戦車を使用。(バビロン第一王朝を滅ぼす際にも役立った)
紀元前1286年、カデシュの戦い。
カデシュの戦いはヒッタイトとエジプト新王国と抗争。ムワタリ王【ヒッタイト】VSラメセス2世(ラメス2世)【エジプト新王国】
カデシュの戦いの16年後の紀元前1270年に現存世界最古の国際条約を結ぶ。
条約を結んだ当時の君主はラメセス2世とムワタリの弟(ハットゥシリ3世)。条約の内容はヒッタイトとエジプトの平和条約。相互不可侵、防衛の同盟、国境をダマスクスに定めるなど。
ボアズキョイ(ハットゥシャ)に都を置く。
東方でアッシリアが勢いを増したことと海の民の侵入により衰退→滅亡。
滅亡後も北シリアにはカルケミシュを中心に、新ヒッタイトと呼ばれる都市国家群が紀元前700年頃まで栄えた。
お疲れ様でした。
以上がメソポタミア文明の基本事項になります。あと少しだけ補足事項を覚えるとメソポタミア文明の学習は完璧になります。
補足事項。
紀元前20世紀頃からミタンニ、紀元前16世紀頃からカッシートも活動を活発化させる。
ミタンニ。
ミタンニ【紀元前20世紀後半~紀元前13世紀半ば】
紀元前2千年頃後半にメソポタミア北部に成立した。
外来のミタンニ人が先住のフルリ人(民族系統不明)を支配していた。
ミタンニ人の民族系統も不明(インド=ヨーロッパ語族とする説も)
紀元前15世紀頃にはエジプトやヒッタイトと並び繁栄した。
最初はエジプトと対立していたが、やがて台頭するヒッタイトに対抗してエジプトと同盟を結んだ。
しかしヒッタイトに領土を奪われる。属国であったアッシリアの自立、離反、強国化などの圧迫も加わる。
紀元前14世紀にはヒッタイトに敗れ、のちにアッシリアに併合され、13世紀半ばにミタンニは滅んだ。
カッシート。
カッシート【紀元前16世紀~紀元前12世紀】
カッシートはイラン方面からメソポタミアに侵入した民族。
ヒッタイトがバビロン第1王朝を滅ぼした後は引き上げたので、バビロン一帯は空白地帯になった。そこにカッシート人がやってきてバビロン第3王朝を築く。
以後400年間カッシート人がその地を支配する。
クリガルズ1世の時代に新都ドゥル・クリガルズを造営しジッグラトを作る。
アマルナ時代(≒紀元前14世紀)にはエジプト・ヒッタイト・ミタンニ・アッシリアと並んで五大強国のひとつとして活発な外交を展開した。
メソポタミア南部を支配した。
クドゥッルと呼ばれる独特の境界石を多く作った。
アッカド語(バビロニア語)を使用した。
民族系統は不明。
紀元前12世紀にエラム人によって滅ぼされた。
余談。消えた民族『エラム人』。
エラム人は独自の文字を発明するなどメソポタミア文明と並行して文明を育て、以後メソポタミアに対する有力な対抗勢力となりました。紀元前11世紀には絶頂期を迎え、壮大なジッグラト(聖塔)を建設しました。しかしアッシリアのアッシュル=バニパルの遠征で敗北し、滅亡を迎え、その後その土地の支配者はアッシリアを滅ぼしたアケメネス朝に交代しました。
以後、エラム人が歴史の表舞台に現れることはありませんでした。
お疲れ様でした。メソポタミア文明の学習はこれで全部完了となります。
次はエジプト文明の学習に移りましょう。
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