途中で腕試しクイズ、最後に明智光秀の妻クイズも用意しています。どうぞ最後までお楽しみください。
明智光秀の妻の出身。
明智光秀の嫁(妻)の名前は熙子といいます。
生年は1530年(享禄3年)【室町時代後期】です。
美濃(岐阜県)で女の子の赤ちゃんとして生まれ、すくすくと成長しました。
熙子の父親は美濃(岐阜県)の小豪族でした。
その姓は【妻木】でしたので明智光秀の妻の旧姓は【妻木熙子】になります。
【妻木】一族は名前に馴染みのないマイナーな一族です。
明智熙子の実家の【妻木】氏は清和源氏の【土岐】氏の庶流(本家より別れた家柄)の血筋でした。
この【土岐】氏とは、鎌倉時代以降、南北朝時代、室町時代、戦国時代と美濃(岐阜県)を支配していた名門の一族で、南北朝時代以降200年間美濃の守護を務めていました。
つまり明智光秀の妻は幾世代もさかのぼると【美濃守護】(≒岐阜県知事)を祖先に持っていました。
このことは明智光秀も同じでした。
【明智】一族も幾世代もさかのぼれば【土岐】氏を先祖に持っていました。
これが明智光秀と妻木熙子の共通点になります。
そうしたことから明智光秀と妻木熙子は遠い親戚同士でした。
このことから明智光秀と妻木熙子は互いに幼馴染であった可能性が指摘されています。
妻木熙子と明智光秀の結婚。妻と夫になる前の逸話・エピソード。
明智光秀と妻木熙子の結婚の時期は定かではありません。早ければ妻木熙子が10代前半の頃、一番遅くとも妻木熙子が26歳の頃には結婚していたとされています(明智城落城の年)
この二人の結婚に際して逸話・エピソードが残されています。
明智光秀が結婚に際して嫁(妻)に対して早速愛情を見せるエピソード。
妻木熙子は結婚直前に天然痘にかかってしまいます。
天然痘とは現代では消滅したとされているが、当時は流行していた、ペストと同様に死者を大勢出していた恐ろしい病気でした。
現代のような科学に基づく薬のない時代ではありましたが、妻木熙子はこの天然痘からなんとか一命をとりとめます。
しかし大切な彼女の顔(左頬)に病気の跡の【あばた】が残ってしまいます。
このことを恥じた妻木熙子は【明智家】から【妻木家】に寄せられた縁談に際して、妹の芳子に明智光秀の正室の座を譲ろうとします。
芳子も美人だったとされています。
しかし明智光秀は【人の容姿はすぐに変わる】しかし【心の美しさは変わらない】とあばたの残る妻木熙子を自分の嫁に選びました。
このことからも、明智光秀が妻木熙子の心の美しさを結婚以前から知っていたことがわかります。
けれど、いったいいつ頃から光秀が熙子に想いを寄せていたのか具体的な記録は残っていません。
明智光秀の妻として明智熙子の苦労。
妻木熙子は明智家に輿入れして【明智熙子】として明智城で生活を送っていました。
しかし不運なことに、明智熙子が26歳のときに明智光秀の居城である明智城は落城します。
当時は、美濃国では斎藤道三が息子の斎藤義龍軍と戦っていて(1556年・長良川の戦い)明智光秀は叔父と共に斎藤道三の味方をしていました。
しかし頼れるボスであったはずの斎藤道三は敗死してしまいます。
その後、斎藤義龍の軍勢は明智城に攻め寄せてきます。
明智城の守備兵力870人に対して、敵の兵力は3700人でした。
奮戦空しく、明智光秀を補佐していた叔父はやがて討ち死にしてしまいます。そして明智城も落城します。
そんな過酷な環境の中で光秀はなんとか妻とともに城を脱出し、越前(福井県)に逃れることで生き延びました。
この際、明智光秀は妊娠していた妻を背負って険しい山の峠越えをしたという逸話・エピソードが残っています。(油坂峠超え)
夫婦ともに激しい息遣いになり、背中に汗のにじんだ大変な経験でした。
称念寺に寺子屋を開いて生計を立てる。
明智城を脱出した明智光秀夫妻は越前(福井県)にたどり着くのですが、無職の貧しい生活を送っていました。
そこで光秀はなんとか生計を立てるべく称念寺に寺子屋を開きます。
今でいう子供相手に勉学を教える【教師】や【先生】の仕事を明智光秀はやっていたわけですが、それは彼に教養があったからこそできたことでした。
とはいえ明智光秀は教師ではなく【侍】です。当然明智光秀はどこかに仕官したいと考えます。
しかし何年もの間仕官先を見つけることができずにいました。そんな明智光秀を明智熙子は健気な嫁として支え続けます。
二人は朝夕の食事にも不自由をしながらも仕官の道を諦めませんでした。
妻の明智熙子が夫の明智光秀に仕官の道を開いた逸話・エピソード
そんなある日、明智光秀は越前国の戦国大名【朝倉義景】(あさくらよしかげ)の家臣を連歌会に招待する機会に恵まれます。
しかし、連歌会では主催者が来客を酒肴でもてなさなければなりません。
明智夫妻は自身の食事も満足にとれていない状況でした。そんな生活環境の中で客に酒肴を用意するのは不可能なことのように思われました。
しかし明智光秀は嫁の明智熙子に言われます。
「かしこまりました。御心配にはおよびませぬ」
聡明な妻はこころよくうけあいます。明智光秀はどうしようもないのですべてを妻に任せました。
そして連歌会当日になると、明智光秀が驚いたことに、他の連歌会にもまさって立派な酒肴が食卓には用意されていました。
連歌会の終了後に明智光秀が嫁の明智熙子に
「どうしてあれほどのものを用意することができたのか?」
と尋ねると、明智熙子は髪を包んでいた布を解いて見せます。
彼女の長くて美しかった黒髪がばっさりと切られていました。
明智熙子は自分の髪を切って売ることで酒肴の準備金を用意したのでした。
旦那を愛していないと妻はこのようなことはできません。女性の髪は大切です。
嫁の献身に感動した明智光秀は
「私は必ず将来立身出世を果たして、あなたの今日の心づくしに報いるだろう」
と泣いて誓ったということです。
こうして自分の嫁に愛情を深めた明智光秀は、連歌会の成功もあって無事仕官を果たして経済的余裕ができたあとも側室を置くことはありませんでした。
【*正室の明智熙子が生きている間の明智光秀の側室は0人でした】
この逸話には、江戸時代の松尾芭蕉も感動を示しています。
有名な「奥の細道」の旅を終えた後、松尾芭蕉は伊勢に赴き、門弟の山田又玄の家に宿泊しました。その際この門弟の妻が芭蕉のことを健気にもてなしてくれます。
松尾芭蕉はその親切さに感謝します。
そして彼女に松尾芭蕉は労いの気持ちを込めて得意の俳句を一句贈ります。
「月さびよ 明智が妻の はなしせん」
松尾芭蕉はこの献身的な妻の姿を明智光秀の妻の姿と重ねたのでした。
明智光秀が嫁を織田信長から守った逸話・エピソード。
【落穂雑談一言集】より。
当時世間の噂では【明智の妻こそが天下一の美女】と言われていました。
この噂を聞いた【織田信長】は噂を確かめたくて仕方がなくなります。
織田信長には豊臣秀吉ほどの【女好き】との記録は残っていませんが、それでも正室の他に8人以上もの【側室】を置いていた人物です。
そんな織田信長はある日、明智熙子の背後から突然抱きついて抱きしめます。
明智熙子は扇でピシャリと信長を打ってなんとか逃れます。
この話を聞いた明智光秀は自分の嫁に容姿が似ているといわれていた【明智熙子の妹】を織田信長の側室として差し出します。
こうして明智光秀はしっかりと自分の嫁のことを織田信長から守り抜きます。
織田信長は妻木芳子(嫁の妹)に満足したようで、芳子が本能寺の変の1年前(1581年)に死去した際には【織田信長の一段のお気に入りだった】と記録されました。
さて、明智光秀と妻木熙子の生涯を見ていく上で今度は二人の子供の話になります。
明智熙子と明智光秀の生涯。子供たちに恵まれていた。
明智熙子と明智光秀は3男4女に恵まれました。
子供が生まれない悩みは経験せず、明智熙子は妻として幸せな時間を送りました。(本能寺の変以前に妻木熙子は亡くなる)
また、明智光秀も本能寺の変、山崎の戦いに敗北するまでは幸せな時間を送りました。
三女の玉子はのちの細川ガラシャとして特に有名です。
そんな明智夫妻の子どもたちは本能寺の変・山崎の戦いが原因で、残念ながら悲しい末路を迎えることになります。
・明智夫妻の子ども一覧。
長男:明智光慶(あけち みつよし) 本能寺の変前後に死亡。ただし生存説あり。それによると本能寺の変後に妙心寺の住職の玄琳となった。
次男:明智光泰(明智十次郎)。本能寺の変または山崎の戦いの前後に死亡。
三男:明智乙寿丸―詳細不明。
長女:倫子(お岸) 明智秀満(光秀の従兄)の妻。山崎の戦い後に死亡。
二女:名前不明。明智光忠(光秀の従兄)の妻。山崎の戦い後に死亡。
三女:玉子(細川ガラシャ)。16歳の時に同い年の細川忠興に嫁ぐ。20歳のときに本能寺の変が起こり、以後幽閉される。豊臣秀吉時代に幽閉を解かれて大坂の細川屋敷に戻る。このころ玉子はすでにキリスト教に密かに入信していて洗礼を受けてガラシャという名を持っていた。晩年は夫にあまり愛されなかった。一男一女をもうける。関ケ原の合戦の際に石田三成の人質にされることを嫌って自刃。享年38歳。孫は最低でも7人はいたとされる。
四女:名前不明。【織田信澄『織田信長が誅殺した信長の弟織田信勝(信行)の息子』の妻】。本能寺の変後に死亡。
なお、幕末の偉人で明智光秀の子孫と言われることもある【坂本龍馬】は明智光秀の長女倫子から連なる血筋だったとされています。
妻の明智熙子と明智光秀の悲しい死別。
明智熙子は結婚以来長年にわたって明智光秀とともに苦楽を共にしてきました。
しかし別れは突然やってきます。
明智光秀が近江に坂本城を築いて一国一城の主になった五年後。
明智熙子が誰もがうらやむ城主夫人になった五年後。
まさにそんな時期に明智熙子は病に倒れてなくなります。
この明智熙子が病に倒れた原因もまたもの哀しい話になります。
・【明智熙子】病に倒れた原因。
1576年に【明智光秀】は【石山本願寺】を攻め落とすために大坂で石山本願寺を包囲していました。
しかしこのときまず明智光秀が先に病を患ってしまいます。季節は五月でした。
【吉田兼見】(よしだかねみ)はこのときのことを【兼見卿記】(かねみきょうき)に『惟日以ての外所労により帰陣』と記しています。
こうして大坂から京都に帰京した明智光秀は著名な『曲直瀬道三』(まなせどうさん)という儒医の治療を受けることになります。
そんな中、五月二十四日に正室の明智熙子が吉田兼見宅を訪れ、神道家に病快癒のための祈念(祈祷、祈願)を依頼します
このときの光秀はかなり重病で、あの織田信長ですら明智光秀のことを心配して使者を見舞いに遣わせるほどでした。
そして一時は【明智光秀死去】の噂さえ流れてしまいます。
実際、公家の山科言継の書いた『言継日記』には「明智光秀は久しく患って明暁死去、坂本へ行云々」と書かれてしまっています。(6月12日)
また吉田兼見も7月14日に明智光秀を見舞いに坂本城を訪れています。
5月から7月までの間明智光秀は2か月間も寝込んでしまっていたのです。
成人男性が2か月も寝込んだことは嫁の明智熙子をはじめ、多くの人々を心配させました。
しかし幸いなことに、光秀はなんとか回復します。
ところが、3か月後の10月に今度は明智熙子が病床に就いてしまします
夫の看病疲れが原因だったと言われています。
明智光秀は妻のために吉田兼見を呼んで快癒のための祈祷を頼みます。
吉田兼見も祓いやお守りを持参して見舞いました。
十月二十四日に明智熙子は一時快癒したものの、しかし十一月七日に明智熙子はこの世を去ります。
明智熙子の人生は波乱万丈で、最後まで夫に愛された人生でした。また、7人の子どもにも恵まれました。
【西教寺】の『過去帳』によると、明智光秀は明智熙子の葬儀にも参列しました。
現代からすると当たり前のことですが、この時代は『常識』が異なり、先に亡くなった妻の葬儀にに夫が参列することは慣習ではありませんでした。
それにもかかわらず明智光秀が妻の葬儀に自ら参列したことから彼の妻に対するその愛情の深さを伺い知ることができます。
・その後
明智光秀は一国一城の主であったこともあり、正室の亡き後をずっと独り身でいることを世間が許しませんでした。【坂本城主明智光秀】に対していくつもの縁談も持ち込まれます。
しかし明智光秀が後妻に選んだのは有力者の娘ではなく、美濃(岐阜県)の田舎の明智熙子の妹のひとりでした。
明智光秀はなくした妻とよく似た容姿の中に【明智熙子】の面影を求めました。
妹には少し気の毒かもしれませんが、明智光秀はそれほど深く明智熙子を愛していました。
最後に明智熙子の生涯をまとめておきます。
明智熙子の生涯
明智熙子の生涯まとめ。
・1530年に美濃(岐阜県)で小豪族の妻木氏の娘として生まれる。
・武士の娘【妻木熙子】としての幼少期を送る。明智光秀と幼馴染だったとされる。
・明智家から縁談が持ち込まれた際、妻木熙子は顔にできたあばたを気にして断りを入れる。しかしそれでも明智光秀は結婚を望む。
・正確な時期は不明ながら、十代前半~二十代前半のいずれかの時期に結婚する。明智熙子となる。
・26歳のときに明智城が斎藤義龍の軍に攻められる。明智城が落城する前に夫の明智光秀とともに脱出する。
・越前(福井県)に夫婦で逃れるもほぼ無職の明智光秀と苦しい生活を送る。
・連歌会の酒肴を自分の髪を売って購入する。これにより連歌会は成功して夫の朝倉家の仕官につながる。
・夫が朝倉家から織田家に転職。織田信長の配下の武将【明智光秀】となる。
・美貌のため織田信長に襲われるも明智熙子は扇で信長を叩いて逃げる。その後妻を守るために容姿が明智熙子によく似た妹を織田信長の側室として明智光秀は差し出す。
・明智光秀との間に三男四女に恵まれる。戦国武将は複数の側室を置くのが当たり前の時代において明智光秀は側室を持たず正室の明智熙子を大切にする。
・夫が出世を続ける。明智光秀はついに織田信長に近江の坂本城を与えられ、明智熙子は一国一城の城主夫人となる。
・夫の明智光秀が本願寺を攻めている最中に大病を患う。光秀が京都に返る。明智熙子は献身的に看病をする。その甲斐もあり明智光秀は回復。
・夫の看病疲れから今度は明智熙子が病気を患う。そして病没する。
・夫が妻の葬儀に参列しないことも珍しくない時代において、明智光秀本人が葬儀に参加する。
【明智光秀の若い頃の苦労時代から全盛期までをともに過ごした明智熙子の生涯だった(本能寺の変・山崎の戦いは知らない生涯だった)】
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