最後に明智光秀の出身クイズも用意しています。どうぞ最後までお楽しみください。
明智光秀の出身が謎に包まれていた。
明智光秀の出身・出身地は謎に包まれています。
その原因となっているのが『信頼性の高い資料がないこと』です。
そこで信頼性の低い資料(明智軍記:続群書類従・明智系図など)を基に誕生したいくつかの『仮説』が歴史学者たちの間で主流となっているのですが、これを理解するのに手間がかかります。
手間がかかる原因は書物の中で馴染みのない武将ばかりが登場するためです。
そんな明智光秀の出身について、この記事ではできるだけ簡単にわかりやすくまとめています。
明智光秀の出身は?
まず、明智光秀の出身は『族姓もわからない身分の低い者』『刀鍛冶の息子』『美濃(岐阜県)の住人』など、最初からもうバラバラの説が混在しています。
そんな中で主流の説では明智光秀は『美濃の土岐氏(ときし)の出身』とされています。【立入左京介入道隆佐記】より。
明智光秀の出身は土岐氏。
それで、土岐氏って何?
土岐氏とは、清和源氏の流れを組む一族で、日本全国に散らばり、特に美濃(岐阜県)を支配していた一族として有名です。
鎌倉時代以降は、南北朝時代、室町時代、戦国時代、江戸時代と土岐氏が美濃(岐阜県)を支配していたことが記録に残っています。
そしてとくに土岐氏の支族、土岐明智氏が明智光秀の先祖ではないかとされています。
この説を採用するなら、明智光秀の出身地は岐阜県で確定ということになります。
以後もこのことを中心に『明智光秀の出身に関する説』は展開されてゆきます。
・明智光秀の出身は土岐氏。
・土岐氏は美濃(岐阜県)の豪族。
・明智光秀の出身地は岐阜県。
・土岐氏の支族、土岐明智氏が明智光秀の先祖。
・これらはすべてあくまで歴史学者たちの間の主流の『仮説』にすぎない。(信頼できる昔の文献が残されていないため)
ときは今 あめが下知る 天下かな。
上記の和歌は、明智光秀が6月2日に起こす本能寺の変の数日前、愛宕山の神社へ参拝(京都府京都市右京区嵯峨愛宕町)した後に詠んだ歌です。
(5月28日に詠んだとされています)
この歌はぱっと見ただけでは、そのころの季節(梅雨の季節)を詠んだだけの何でもない歌ですが、実は深い意味が裏に隠されています。
『ときは今』の【とき】は『(梅雨の)とき』と明智光秀の姓『土岐』が掛詞になっています。
『あめが下知る 天下かな』も【天下に下知を下す】と解釈されます。
つまり『土岐【明智光秀】が(織田信長を殺して)天下に下知を下す』という意味の歌になっているのです。
ときは今 あめが下知る 天下かな。
このことから、明智光秀は自身の先祖が『土岐』氏であると自覚していたとされ、また明智光秀の先祖を『土岐明智氏』とする根拠のひとつとされています。
明智光秀の出自・出身のルーツは土岐氏。これを手掛かりに探る。
明智光秀の先祖が土岐氏だとわかれば、これを手掛かりに明智光秀の出自や出身を掴むことができます。
そのためにまずは土岐氏について、明智光秀の父や祖父よりさらに前の南北朝時代、室町朝時代までさかのぼって知識を仕入れる必要があります。
南北朝時代。
南北朝時代、美濃(岐阜県)は土岐氏が支配していました。
当時の美濃の支配者は【土岐頼貞】という人物でした。
土岐頼貞(1271~1339)。
明智光秀の先祖。
1333年、後醍醐天皇の詔を受け、鎌倉幕府を倒すために挙兵し、足利尊氏の軍に加わる。
建武の新政では美濃守護に任じられ、以後200年間美濃の守護を土岐氏が継承する。
建武新政府に対し足利尊氏が挙兵すると、尊氏に従い南朝と戦い数々の戦功をあげる。
室町幕府軍を支える戦力となり、土岐頼貞は「御一家(足利氏)の次、諸家の頭」と呼ばれる。つまり室町幕府内で大きな地位を築いていた。
そんな【土岐頼貞】の孫【土岐頼重】が、詳細は不明ですが【明智郷】を領有することになります。
明智郷を所領としたこの【土岐頼重】は【明智】姓を名乗ることにします。
つまりこの人物【土岐頼重】こそが明智光秀の【明智】姓の始祖となります。
・南北朝時代の武将【土岐頼貞】は立派な人物だった。
・その孫【土岐頼重】=【明智】の始祖であり、明智光秀のルーツをたどるための出発点となる。
室町時代。
南北朝時代から時は流れ、時代は室町時代に移ります。
室町時代に入ると明智の血筋は始祖【土岐頼重】の頃から数えると幾世代も後の子孫の時代に移っています。
この時代の明智家の当主は【明智頼尚】という人物でした。
そんな中で1502年、【明智頼尚】は息子の【明智頼明】にその所領をすべて譲ります。
また世代がひとつ移りました。
ちなみにこのとき所領を譲られた【明智頼明】は【嫡男】ではありませんでした。
通例では正室の長男である嫡男が父親の領地を継ぐはずですが、このときの明智家では事情が異なりました。
嫡男が父親(明智頼尚)に背いて敵対していたのです。
この嫡男の名前を【(土岐)明智頼典】といいます。
そしてこの嫡男【(土岐)明智頼典】こそが、明智光秀の直接の【祖父】に当たります。
つまり、明智光秀は領地を継げなかった人物の【孫】になります。
・土岐明智氏の血筋は代々繋がっていく。
・明智光秀の祖父の時代に、嫡男であったはずの祖父【(土岐)明智頼典】は父から領地を継げず、代わりに祖父の弟【明智頼明】が領地を継ぐ。
【まとめ】(明智光秀の先祖の流れ)初代美濃守護→明智の始祖→祖父→明智光秀。
明智光秀とその出身。明智城。
明智光秀の出身についていよいよ戦国時代を探っていきます。
戦国時代。
いよいよ時代は祖父の時代から、父と明智光秀本人の時代に移ります。
まずは明智光秀の【父】に焦点を絞ります。
明智光秀の【父】
詳細不明。名前からして無茶苦茶。
以下の3通りある。どれが本物なのか、複数の名前を使用していたのか、なども不明。
父の名前:明智光圀or明智光隆or明智光綱。
このような謎に包まれた父の【正室の息子】として明智光秀はこの世に生を受けたとされています(諸説あり)
異説。
明智光秀の父は身体が弱く、子供にも恵まれなかった。
そこで父は生まれたばかりの【妹の息子】を自分の後継ぎとして家督を継がせるために養子として迎える。
この【妹の息子】こそが明智光秀になる。
この説が正しいのなら、祖父は変わらないが、父は【実父】ではなく【養父】ということになる。
いずれの説が正しいとしても、明智光秀はまぎれもなく父の【嫡男】として扱われていました。
そして明智の本城【明智城】で生活していました。つまり明智城が明智光秀の出身地となります。
明智城で父とともに暮らしていた明智光秀でしたが、父は明智光秀が11歳のときに他界してしまいます【諸説あり】
その後、少年の【明智光秀】は叔父(父の弟)の【明智光安(宋寂)】という人物に補佐されることになります。
明智城落城。出身地を出て明智光秀浪人へ。
明智城落城。
明智光秀の叔父【明智光安】は美濃(岐阜県)の大名、斎藤道三に従っていました。
しかし斎藤道三は1556年の長良川の戦いで息子の斎藤義龍に敗死してしまいます。
斎藤道三の味方をしていた明智城方は当然、斎藤義龍とは【敵対関係】にあります。
しかし頼れるボスだった斎藤道三は既にこの世にいません。
窮した明智光秀の叔父【明智光安】は明智城に籠城することを決めます。
そこへ3700人の斎藤義龍軍が攻め寄せてきます。
一方で明智城の守備兵はわずか870人でした。
奮戦空しく一月後、明智城は落城します。
叔父【明智光安】と叔父の弟【明智光久】(おそらくこの人も叔父)の二人は落城とともに討ち死にを果たします。
明智光秀もまた信頼していた叔父たちとともに城を枕に最期を遂げようと考えます。
しかしそれを未然に生前の叔父【明智光安】に止められてしまいます。
明智光秀は、叔父たち(明智光安と明智光久)の息子を連れて明智城を脱出するように説得されていました。
詳細は不明ですが明智光秀は無事に明智城を生きて脱出することに成功します。
出身地を後にした明智光秀は、落城とともに滅亡した明智家の再興をその手に託されました。
その後。
明智城から落ち延びた明智光秀は戦国浪人として流浪し、妻と共に苦しい浪人時代を過ごします。
そしてやがて越前(福井県)にたどり着きます。
その後明智光秀は越前を出て、織田信長の下に士官します。
そして出世を重ね、やがて本能寺の変を起こします。
こうした部分は有名です。
明智光秀の出身のまとめ。
・南北朝時代の武将【土岐頼貞】は立派な人物だった。
・その孫【土岐頼重】=【明智】の始祖であり、明智光秀のルーツをたどるための出発点となる。
・明智光秀の祖父の時代に、嫡男であったはずの祖父【(土岐)明智頼典】は父から領地を継げず、彼の弟【明智頼明】が領地を継ぐ。
・明智光秀の父は謎に包まれていた。明智光秀が11歳の時に他界する。
・明智光秀は叔父に後見されて明智城の城主となる。
・明智城は斎藤義龍軍に攻め滅ぼされる。叔父が討ち死にする。
・その後明智光秀は出身地を脱出し浪人となる。
・織田信長に仕官する。以後【明智光秀】が歴史の表舞台に登場する。
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