【どんな人?】浅野長政とは? 浅野長政の生涯をわかりやすく解説。

浅野長政 浅野長政
浅野長政
れふかん編集委員
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この記事は浅野長政とはどんな人だったのかについての特集になります。

まずは浅野長政の誕生と、豊臣秀吉と義兄弟になった話から始まります。

豊臣秀吉と義兄弟になった浅野長政

浅野長政は、父の安井弥兵衛重継の長男として尾張国(≒愛知県西部)に生まれます。

尾張 地図
尾張 地図
生まれる
生まれる

かわいそうな浅野長政は、幼くして実の両親と引き離されて母方に縁のある浅野家に養子に出ることになります。

長政が引き取られた浅野家の当主は浅野又右衛門長勝でした。

養子
養子

この養父の浅野又右衛門長勝は再婚しており、再婚相手の連れ子に『おね』という少女がいました。

この少女『おね』がのちに豊臣秀吉の結婚相手となります。

結婚
結婚

つまり浅野長政と秀吉の妻の『おね(ねね)』は血が繋がらない姉弟きょうだいでした。

そしてこの『おね』が豊臣秀吉と結婚したことにより、豊臣秀吉と浅野長政は義兄弟となりました。

豊臣秀吉の方が浅野長政よりも10歳年上でした。

このように、二人は何もしなくても義兄弟の関係だったのですが、わざわざ義兄弟の契りを結びました。

浅野長政は織田信長の配下に入る。

浅野長政の義兄の豊臣秀吉(羽柴秀吉)は織田信長の配下の武将として活躍していました。

織田信長
織田信長

成長した浅野長政も、義兄のように織田信長配下の武将の弓衆として仕官するようになります。

弓

そして信長の命令により秀吉の直接の部下として活躍します。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

この頃( 1573年 )の浅野長政には120石の知行が支給されていました。

(1石=140キログラム。成人男性の1年分の米の消費量に相当する。現代の現金に換算すると1石=約5万円)

つまり現代に換算すると浅野長政は年収約600万円ほどを稼ぐ武将でした。

浅野長政が26歳のときのことでした。

この時期に浅野長政が暮らしていた邸宅の跡地が現在の浅野公園として愛知県にあります。(〒491-0871 愛知県一宮市浅野八剱67−1)

浅井長政の生涯は出世の連続だった。

その後さらに浅野長政は秀吉の配下の武将として江北(≒滋賀県北部)での戦いや播磨(≒兵庫県)での戦いで軍功を挙げます。

播磨 地図
播磨 地図
戦い
戦い

上月城の戦い。(播磨での戦い)

秀吉は宇喜多軍と交戦する。

秀吉は浅野長政ら配下の武将の軍を率いて宇喜多軍と戦い勝利を収める。

これらの功績が認められ、浅野長政は1580年に播磨国で4860石を知行としました。

現代の日本円に単純に換算すると、4860石 は2億4千300万円となります。

浅野長政が33歳のときのことでした。

また、1582年に本能寺の変が起こり豊臣秀吉の時代が訪れると、浅野長政はさらに大出世を果たします。

出世
出世

賤ケ岳の戦いの後の浅野長政

本能寺の変
本能寺の変

本能寺の変で織田信長が世を去ると、織田信長の家臣だった豊臣秀吉(羽柴秀吉)と柴田勝家の間で覇権争いが起こります。

柴田勝家
柴田勝家

そして1583年、ついに二人は衝突して賤ケ岳の戦いが起こります。

賤ケ岳古戦場
賤ケ岳古戦場
賤ケ岳の戦い
賤ケ岳の戦い

賤ケ岳にの戦いでは、秀吉が勝利して【織田信長の実質的な後継者(天下人)】は秀吉のものとなります。

秀吉の部下だった浅野長政は、この賤ケ岳の戦いで戦功をあげたことにより近江(≒滋賀県)の甲賀と栗太に20300石の領地を与えられました。

近江 地図
近江 地図

これは現代で換算すると、浅野長政は年商10億1500万円の社長クラスといえます。

その後豊臣秀吉が日本を統一すると、浅野長政は検地や諸大名と秀吉の仲介役などの政治面でも活躍を見せます。

そして若狭に8万石を与えられ、さらに最終的には甲斐国(≒山梨県)に22万5千石の領地を与えられました。

甲斐 地図
甲斐 地図

現代でたとえるとこれは年商112億5千万円相当でした。

ただしこのうち1万石は秀吉の蔵入り地であり、五万五千石は嫡男の浅野幸長の領地でした。

浅野幸長
浅野幸長

いずれにしても、浅野長政が、尾張の田舎の下級武家に過ぎなかった浅野家を大名の家柄にまで高めることに成功したといえます。

浅野長政と石田三成の関係

石田三成
石田三成

豊臣秀吉の家臣として浅野長政と石田三成は共に重宝されていました。

二人はやがて出世して五奉行として肩を並べることになります。

しかし二人の仲は良くありませんせした。

なにかと徳川家康を警戒する石田三成と、徳川家康と気が合っていた浅野長政は、互いの考え方が大きく異なっていました。

他にも、朝鮮出兵に反対する浅野長政と朝鮮出兵に賛成する石田三成との対立構図がありました。

浅野長政と伊達政宗の関係

伊達政宗
伊達政宗

伊達政宗といえばわずか18歳で伊達家の家督を継ぎ、東北地方の大部分を手中に収めた戦国武将です。

伊達政宗は豊臣秀吉に服従を示すのが遅かったため、幽閉されて所領も全て没収される危機に瀕していました。

しかし取次役の浅野長政や前田利家のとりなしと、豊臣秀吉自身の判断によって最悪の事態は避けることができました。

所領の一部を削られるだけで済んだ伊達政宗は直筆の【感謝状】を浅野長政に送ります。

当時の大名は右筆に手紙を代筆させることも多かったため、直筆の手紙からは政宗の浅野長政のとりなしに対する大きな感謝の気持ちを感じ取ることができます。

しかしのちに、豊臣秀吉に対する政宗の不満はすべて代わりに仲介役の浅野長政に向けられることになります。

伊達政宗は【絶縁状】を浅野長政に送りつけ、以後398年間の間浅野家と伊達家の関係は修復されませんでした。

浅野長政と関ケ原の戦い

関ケ原の戦い 絵画
関ケ原の戦い 絵画

関ケ原の戦いの1年前に浅野長政は徳川家康領内の武蔵国府中で謹慎します

武蔵 地図
武蔵 地図

理由は浅野長政らのグループによる【徳川家康暗殺】容疑です。

本当にそのような計画が存在していたのかは定かではありませんが、これにより翌年の関ケ原の戦いで浅野長政が石田三成の西軍に味方することは不可能となりました。

そして関ケ原の戦いでは浅野長政は徳川秀忠の配下について東軍に味方します。

しかし信州上田の真田昌幸・真田幸村との戦いに時間を取られたため、浅野長政は関ケ原の戦いの本戦に参加することはできませんでした。

また、浅野長政の息子の浅野幸長も東軍に味方しており、岐阜城攻めの戦功などにより、戦後紀伊37万石を与えられています。

紀伊 地図
紀伊 地図

浅野長政の逸話

逸話
逸話

浅野長政には少なくとも11個の逸話が残されています。

11個の逸話に関しては以下の記事で詳しく解説しています。

浅野長政の11個の逸話の内容をジャンルごとにまとめると以下の5つのジャンルに分類することができます。

・石田三成と相性が悪いエピソード

・徳川家康と相性が良いエピソード

・囲碁が大好きなエピソード

・化け物を斬った名刀を秀吉に献上したエピソード

・お稲荷さまを熱心に信仰していたエピソード

浅野長政の最後

徳川家康
徳川家康

晩年の浅野長政は1606年に徳川家康から常陸国の真壁郡と筑波郡に5万石の隠居料を与えられ余生を過ごします。

徳川家康に浅野長政が気に入られていた理由は、浅野長政が徳川家康の最高の囲碁のパートナーだったことが大きく影響しています。

浅野長政自身も囲碁が大好きで、囲碁の勝負に熱くなると、天下を治める徳川家康に対して堂々と悪態をつくこともありました。

絵にかいたような隠居武将の晩年を送っていた浅野長政はそれから5年後の1611年に病没します。享年64歳でした。

それ以来、徳川家康はしばらく誰とも囲碁を打たなくなったという逸話が残されています。

なお、嫡男の浅野幸長もその2年後に享年37歳で病没しました。幸長には男児がいなかったため、弟(次男)の浅野長晟が宗家の浅野家の跡取りとなります。

これにより豊臣家に大きな恩顧のある浅野長政と浅野幸長の二人は共に大坂の陣には参戦することができなくなりました。

なお、浅野長政の次男や三男は大坂の陣で徳川家に味方しました。

浅野長政の子孫

浅野長矩
浅野長矩

浅野長政といえば子孫が【忠臣蔵(元禄赤穂事件)】で有名な浅野内匠頭長矩であり、子孫も浅野長政と負けず劣らず知名度があります。

*家系図は浅野長政ー長重ー長直ー長友ー長矩(浅野内匠頭)

ただ、この浅野内匠頭の家系は三男の浅野長重に始まる分家の家系です。

三男の浅野長重系の分家(常陸真壁ー常陸笠間ー播磨赤穗の順に転封)は赤穂浪士事件により浅野長矩のときに断絶しています。(江戸時代。1701年)

のちにこの浅野長矩の実弟が許され、500石の旗本としてお家を再興することを許されます。

そして分家は幕末まで存続しました。

一方で宗家の浅野家は浅野長政の次男の浅野長晟のときに紀州藩から広島藩へと転封(37万石から42万石に加増)され、広島藩として幕末を迎えています。

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参考文献。日本大百科全書。世界大百科事典。日本国語大辞典。国史大辞典。日本人名大辞典。日本大百科全書。他、図書館の多数の書籍。

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