あなたは以下のテーマについてどう思いますか?
・今日のテーマ
高齢者が車を運転をして道路を逆走する問題。

今回のテーマは、女暗殺者の私が経験を踏まえてエッセイで話した方がいいかな?
ターゲットではなく、私が狙われた日

あれは東京湾岸高速の夜だった。
ターゲットは暴力団の若頭、ボディガード付き。
私にとっては退屈な仕事だった。発信機付きの車で尾行し、トンネルの出口で処理する。いつもの手口。だがあの夜、標的でもない、白の軽自動車が――私に向かって逆走してきたのだ。
「老女が運転してた」と警察は言った。87歳。目が見えにくくなっていたらしい。
私は巻き込まれて、ターゲットにも逃げられた。軽傷ですんだのは奇跡だったが、依頼は失敗。ペナルティもついた。
その時ふと考えたのだ。
なぜ、何十人を静かに葬ってきたこの私が、社会的に”善”とされる老人に殺されかけなきゃいけないのか?
荒事のプロであるはずの私が、素人に命を奪われそうになった不条理に、私は本気で怒っている。
高齢者の運転する車の逆走問題は深刻だ。いつかあなたも逆走車に出会うかもしれない。
老いは免罪符じゃない
私は68歳のターゲットを2年前に処理したことがある。元官僚。金と女に汚れた男だった。
「年寄りは手加減してやれ」と依頼人は言ったが、私は違う。
年齢は盾にならない。悪意があれば処す、それだけの話だ。

けれど世間は違う。
高齢者がコンビニに突っ込んでも「不幸な事故」と言い、被害者だけでなく加害者までもが「かわいそう」と言われる。
でも、本当に”加害者”もかわいそうなのだろうか?。
判断力も身体能力も落ちているのに、ハンドルを握る。しかも「自分は大丈夫」と思っている。
殺意がないだけで、結果として人を殺しているのだ。
私の職業は暗殺者だけど、無関係の人間は殺さない。
でも、逆走する老人たちは違う。
無差別で、制御不能で、罪悪感もない。
どっちが危険なのか、比べてみるといい。
逆走の国、日本
諜報の仕事で、私はヨーロッパに数年潜伏していた。
フランス、ドイツ、イタリア――どこでも「高齢者の運転制限」は制度として整っていた。
ある国では免許更新は厳格だし、ある国では自主返納への支援金もある。
だが日本はどうだ?
「おじいちゃんが運転するのが生きがいなんです」
「田舎にはバスがないんです」
そんな感情論と田舎のインフラ不足で、命が日々ギャンブルにさらされている。
逆走車が走るたび、ニュースは「悲劇だ」と言う。
だがこれは、悲劇じゃない。構造の問題であり、怠慢の結末だ。
そして私は、国家の怠慢のせいで殺されかけた。
「逆走老人」をターゲットにする日
もちろん私は、感情で仕事を選ばない。
だが、もし仮に――仮にだ。
ある組織が「逆走常習者を処理してくれ」と依頼してきたら。
私は断るだろうか?
彼らはすでに、潜在的な大量破壊兵器になっている。
無差別。無意識。そして免責。
なら、法律の網の外で、私は責任を果たすだけだ。
暗殺者の倫理は社会より冷たくて明確だ。
「やるか、やられるか」ではない。「やるべきか、否か」だけだ。
逆走常習者に命を奪われる人々を守るためなら、女暗殺者として仕事にとりかかるだろう。
そうなる前に、周囲の人間が大量破壊兵器となった彼らに車を手放させて欲しい。
本当にハンドルを握るべき人へ

最後に言いたい。
運転とは、力だ。命を動かす力だ。
その力を、衰えた者が制御できないのは当然だ。
私は拳銃を扱える。だが視力が落ち、反射が鈍れば、武器を置く。
それがプロの姿勢というものだ。
──衰えたなら、免許を返し、ハンドルを放せ。若い命を守るために。
※当ブログ【歴史ファンの玄関:れふかん】のエッセイに出てくる女暗殺者は架空の人物です。女暗殺者のことは、現代社会のテーマ史を扱う際に、テーマをわかりやすく解説するための補助役とお考えください。
