五奉行とは? わかりやすく解説!

五奉行 安土桃山時代
五奉行


五奉行(ごぶぎょう)」は、豊臣秀吉が天下統一後に政権を安定させるために設置した政治の実務担当グループです。わかりやすく言えば、

🏯「豊臣政権の官僚トップ5」
👉日々の行政・財政・人事など、政務の“実働部隊”

という位置づけです。


■ そもそも「奉行」って何?

奉行とは、政務や業務を担当する役職のこと。
江戸時代の「町奉行(=町の治安担当)」などと同じく、担当分野を任されて仕事をする実務官僚ポストです。


■ 五奉行のメンバー(いずれも秀吉側近)

名前特徴・役割
石田三成(いしだ みつなり)知略に長けた行政官。文治派の中心人物。
増田長盛(ました ながもり)土木・財政に強く、築城や城下町の整備に関与。
長束正家(なつか まさいえ)会計のプロ。財政監査や徴税で力を発揮。
前田玄以(まえだ げんい)元僧侶で政治に明るい。京都の治安維持なども担当。
浅野長政(あさの ながまさ)秀吉の親戚。武にも通じるバランス型奉行。

■ 何をしていたの?

日常の政務を担う、いわば「政権のエンジンルーム」です。
具体的には:

  • 官僚の任命・監督
  • 税金や年貢の管理
  • 土木工事や築城の指示
  • 外交の準備や儀礼対応
  • 京都など都市部の治安維持

要するに、「天下人・秀吉の命令を現実に動かすための中枢」でした。


■ なぜ五人いたの?

秀吉は(配下武将による)「独裁ではなく、合議制による政治」を理想としたため、複数人に分権してバランスを取る方式をとりました。


以下に、五奉行それぞれの主な業績をわかりやすくご紹介します。彼らは豊臣政権を支えた“文治の五本柱”ともいえる存在です。


🧠【1】石田三成(いしだ みつなり)

◆ 豊臣政権の知将にして、行政の要

  • 検地の実施と推進
     → 太閤検地の制度化を助け、全国の土地・年貢を数値化。これにより豊臣政権の財政基盤が整う。
  • 文治主義の代表
     → 武力ではなく、法と制度で治める体制を強く支持。これが武断派(加藤清正ら)との衝突を生む。
  • 外交文書の起草や和平交渉
     → 朝鮮出兵時、明・朝鮮との外交文書作成や停戦交渉を担当。
  • 関ヶ原の戦いを引き起こした中心人物
     → 秀吉死後、家康の専横に反発して西軍を結成し、天下分け目の決戦を指揮(1600年)。

🏗【2】増田長盛(ました ながもり)

◆ 土木・築城の達人、政務も実直に遂行

  • 伏見城の築城指揮
     → 秀吉の命で伏見城(京都)の築城を担当、江戸期の政治の中心の前身ともいえる拠点を整備。
  • 内政実務に精通
     → 三成と並んで政権の事務処理や公文書発行を統括。奉行の中では中庸的な立場を保った。
  • 関ヶ原後も粛清を逃れる
     → 西軍に加わったが、戦後に寛大な処分を受けて高野山へ追放され、のち赦免。

💰【3】長束正家(なつか まさいえ)

◆ 会計・財政のプロフェッショナル

  • 太閤検地の集計・管理
     → 三成と連携し、検地結果の財政データを精緻に記録。年貢高の確定に貢献。
  • 徴税制度の整備
     → 秀吉政権において、税制の透明化を進め、収入の安定に寄与。
  • 三成派として西軍に参加
     → 関ヶ原の戦いでは三成側に加担。戦後に所領没収、追討され自害した。

🧘【4】前田玄以(まえだ げんい)

◆ 元僧侶、京都の治安と儀礼の達人

  • 京都の町政・治安維持を担当
     → 伏見や京都を中心に都市の整備と行政、民政を担当。宗教とのつながりを活かし寺社政策も担当。
  • 豊臣秀頼誕生時の産所奉行
     → 秀頼の誕生を取り仕切り、宮中・公家との儀礼に関与する役目を担った。
  • 関ヶ原後も徳川に重用される
     → 東軍に味方し、戦後も所領を安堵される。

🛡【5】浅野長政(あさの ながまさ)

◆ 秀吉の親戚、武も文もこなす万能型

  • 朝鮮出兵の軍監
     → 文禄・慶長の役において、諸将の戦いを監督し、戦争の実務と調整を担当。
  • 諸大名との交渉役
     → 親戚という立場から、武将たちとの橋渡し役を果たす。奉行の中でも武断派との対話ができた数少ない人物。
  • 関ヶ原では東軍として参加
     → 徳川家康側につき、戦後も加増。息子・浅野幸長はその後、広島藩主となる。

🔚まとめ:五奉行の業績とは?

奉行名主な業績特徴
石田三成太閤検地、外交文書、関ヶ原文治派の筆頭、理論家
増田長盛築城・土木、内政全般バランス型の実務官僚
長束正家会計・徴税、検地集計財政のプロ
前田玄以京都行政、宗教対応治安と儀礼の司令塔
浅野長政朝鮮出兵、諸将調整文武両道、親戚ポジション

■ 最後はどうなった?

秀吉の死後、五奉行のリーダー格だった石田三成が、徳川家康と対立。
政権内で五奉行 vs 五大老の対立が激化し、最終的に関ヶ原の戦い(1600年)で崩壊しました。


📝まとめ:五奉行とは?

  • 豊臣政権の実務官僚トップ5
  • 行政・財政・治安・人事を担当
  • 石田三成を中心に「文治派」として活躍
  • 後に徳川家康と対立し、歴史の転換点に関わる
  • 関ケ原の戦いで崩壊

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