阿部忠秋とはどんな人?
阿部忠秋は1602年生まれの幕府の譜代家臣です。
忠秋は9歳の時に、7歳だったのちの三代将軍・徳川家光の小姓として仕えることになりました。
やがて小姓番頭となり、22歳の時に従五位下、豊後守となります。
32歳のときに小姓仲間だった、同僚の松平信綱たちととも六人衆と呼ばれ、幕政を助けました。
【六人衆】とは旗本や御家人の管理を中心とした将軍家の家政を担う役職です。
六人衆のうち4人が老中に昇格してしまったため、六人衆と言う役職はのちに廃止されます。
六人衆はしかし、さらに先の時代に【若年寄】という老中に次ぐ重職として復活します。
それはさておき、阿部忠秋は六人衆となったわずか2か月後に老中にまで出世を果たします。(32歳)
忠秋は家光の死後も、第四代将軍・徳川家綱を補佐しました。
領国は武蔵忍で、8万石を領有していました。
(6000石の譜代家臣の長男として生まれたが、8万石まで出世した)
阿部忠秋の逸話動画
【逸話第5位】鶉(うずら)と老中(阿部忠秋)
江戸時代のある時期、
大名たちの間で鶉(うずら)という鳥を飼うことが大流行した。
鶉はキジ科の鳥で、尾が短く体も小さめで、
家禽化は日本が発祥である。
さて、時の老中・阿部忠秋も好んで鶉を蒐集していた。
そんなある日、ある大富豪が最高級の一羽を手に入れた。
この特別な鶉を、老中・阿部忠秋様に献上したいと、彼は考えた。
そこで、お出入り先の大名に
阿部老中への言伝を頼んだ。
大名が、折良いときにこの話を忠秋に伝えると、
忠秋はしばらく黙り込んだ。
そして次に、大名と他愛もない世間話をした後、
近侍の者に自分の鶉コレクションを運ばせた。
そして鳥籠を開けるように命じた。
すると鶉たちが一羽残らず飛び去ってしまった。
忠秋は
「責任ある役職についている者は、
物を好んで集めてはいけないことに気づいた」
と言った。
「その商人(大富豪)にはこのことをよろしく伝えておいて欲しい」と忠秋が言うと。
大名は言葉もなく退出した。
こうして忠秋が遊楽を削って捻出された資金は、のちに孤児を育てる際に役立った。
【逸話第4位】優しい老中(阿部忠秋・細工師・子供)
江戸時代の偉人である、老中の阿部忠秋には、愛用していた茶壷があった。
ある日、忠秋は茶壷を入れるための箱が欲しくなり、箱の細工師に茶壷を預けた。
ところが、細工師の子供が、茶壷に腕を突っ込んでしまい、抜けなくなった。
細工師はひとまず、忠秋の家来を通じて事の次第を忠秋に報告した。
忠秋は大切な壺を惜しむ様子もみせずに、
「なぜ壺を打ち砕かないのか?」
と尋ねた。
その言葉のおかげで細工師は壺を砕き、
無事に子供の腕を壺から抜くことができた。
その後、忠秋の大切な壺を破壊したこの細工師が、
死を覚悟して処分を尋ねると、忠秋は
「何の罪になるのだ?」
と言って細工師を許した。
細工師は感激して泣いた。
【逸話第3位】切腹させたいVS切腹させたくない(阿部忠秋、徳川光圀)
江戸時代のある日、ある水戸藩士が、
ケンカをして幕府関係者を斬り殺した。
幕府の老中たちは、水戸藩主の徳川光圀に対して、
犯人の水戸藩士を切腹させるように伝えた。
しかし家臣を切腹させたくない光圀はこれを拒んだ。(家臣を守った)
それからしばらくして、江戸城に登城したい光圀と、
それを阻止したい幕府の老中たちという構図になり、
そこで阿部忠秋という老中が、光圀と親しい間柄の自分の家臣を、
光圀の元へ派遣した。
光圀を登城させてはいけないという任務を帯びたその家臣は、
江戸城に向かう途中の徳川光圀に出くわすと言った。
「あなたがこの先に進むと、私がこの場で切腹しなければならない」
こうして激怒する光圀を追い返した。
帰宅後も怒りの収まらない徳川光圀は家臣に命じた。
「阿部忠秋がこの後ここに来るだろうが、人を斬った水戸藩士の切腹の話をしても、お前たちも承知するなよ」
まさにその会話をしているところに阿部忠秋が現れた。
すぐに対面所に通されたが、忠秋は水戸藩士の切腹の話はしない。
「先代の将軍・徳川家光様が御三家に残した遺言書を見たい」
とだけ忠秋は言った。
光圀が近侍の者に水戸藩に残された遺言書を持ってこさすと、忠秋は「読んで欲しい」という。
忠秋の意図が分からず、光圀は遺言書を近侍の者に音読させた。
そこには「家中他家、大身小身によらず、喧嘩両成敗たるべし」の文字があった。
忠秋はそこで「もう結構です」と言った。
光圀は渋々家臣を切腹させた。
【逸話第2位】死罪を取り消した老中(阿部忠秋、徳川家光)
江戸時代のある日、将軍・徳川家光が鷹狩りから帰って風呂に入った。
そして家光はやけどした。
火傷の原因は、お湯係の家来が間違って、うっかり家光に熱湯をかけたからだった。
激怒した家光はお湯をかけた男とその息子を死罪にした。
家光から呼ばれてこの命令を授かった男は、死刑はやりすぎだろ、と思った。
彼は譜代家臣の阿部忠秋だった。
忠秋は次の間に控えていた近侍の者に、
「上様の機嫌がよくなったら自分を呼ぶように」と命じた。
さて、徳川家光は夕食を終えて腹がふくらむと、すっかり機嫌が良くなった。
そこへ阿部忠秋はしれっと登場して、とぼけて言った。
「先程の父子の罪科ですが、物忘れをしてしまい、
刑罰の種類をすっかり忘れてしまいました。
ご命令は何でしたか?」
徳川家光はしばらく黙り込んだあと、刑罰を八丈島への島流しに変えた。
阿部忠秋が退出したあと、家光の近侍の者が
「阿部忠秋様ほどのお方でも、物忘れをなさるのですから、我々など――」
のような発言をすると家光は
「なんの、忠秋が物忘れなどするものか。死罪というのは天下の御政道の中でも特に慎重に決定を下さなければならないものなので、みだりに行ってはいけないものだ。忠秋は私の誤りを正すためにああ言ったのだ。なんとも恥じ入る次第だ」と言った。
そこまでわかっていながら、この将軍・家光は、死刑からあまり軽くなっていない、八丈島への遠流という過酷な刑罰を与えたのだった。
なお、父子が八丈島に流されたのちも、忠秋は家光に対して父子を恩赦するように働きかけている。(成否の記録はなし)
また、阿部忠秋が、将軍の前で「物忘れ」など無礼に見える態度を取れた理由の一つには、
二人の年齢が近く、家光と忠秋が幼少の頃から親しい、特別な絆で結ばれた間柄だったことが影響している。
(忠秋が9歳の時に、7歳の家光の小姓となっている)
【逸話第1位】老中の恥(阿部忠秋・捨て子・天下)
江戸時代のある日、老中の阿部忠秋は、上野の寛永寺と増上寺に代参した。
この寺は、将軍家の菩提寺だった。
その道すがら、忠秋は捨て子を拾った。
さて、忠秋は定期的にこれらの寺に代参していたので、
捨て子もまた、定期的に拾っていた。
最終的に、忠秋が拾った捨て子の数は数十人にも及んだ。
あるとき、これを見かねた家臣の一人が忠秋に諫言する。
「殿が定期的にこの道で捨て子を拾うことが知られてしまい、
殿の往来を待って捨て子が捨てられるという噂です。
毎回捨て子を拾うと、全員を育てるために無駄な出費がかかりますので、
おやめください」
忠秋は
「費用は自らの遊楽を節約して、捨て子のために用いているのだ。
第一、捨て子がいるのは天下の恥であり、それは老中の恥でもある」
と答えた。
のちに捨て子たちは、
男子は良き奉公人となり、女子も良き相手と縁を結んだ。
参考文献。日本大百科全書。世界大百科事典。日本国語大辞典。国史大辞典。日本人名大辞典。日本大百科全書。他、図書館の多数の書籍。
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