「あなた方は兄弟で戦場に立つとどうなると思いますか?」
そう語りかけるのは幕末ファンのK氏だ。
「兄弟で幕末の戦場に立つのは珍しいなと思って、兄弟の感情や行動などが知りたいと思って調査したんですけど」
K氏は、幕末の鳥羽の戦い(鳥羽・伏見の戦い)に薩摩藩兵として参戦した長男の海江田信義(別名:有村俊斎)〈37歳〉と、四番目の末の弟の有村國彦〈27歳〉の兄弟について興味を持ったらしい。
「まあ、兄が弟を思いやっていましたね。この調査結果に意外性はありませんでした」
と語るK氏はしかし、調査が期待外れに終わった割には、なぜか楽しそうな口調で我々に語り続けた。
「でも、収穫はありました。私が意外に思ったのは、兄弟が体験した戦闘の激しさです。これが今からたった約160年前の京都で起こった実話だと思うと震えましたよ」
「それに、予想通りだったとはいえ、弟のことを気にしていた兄の様子も興味深かったですね」
K氏は、戦場で活躍した兄の海江田信義と、戦場で重症を負った弟の有村國彦について順番に話し始めた。
兄の海江田信義(有村俊斎)が活躍する
「兄の海江田信義(37歳)は1868年の1月3日に最初、斥候として鳥羽の戦いの戦闘に参加しました」
斥候とは、敵軍の動静・地形などをひそかに探り監視するために、部隊から差し向ける少数の兵のことだ。
「兄の海江田信義は戦いが始まると、勝敗がなかなか決まらない中で、同じく薩摩藩士の黒田清隆〈29歳〉(のちの第二代内閣総理大臣)に、敵陣に「斬りこもう」と声をかけました。そして、ただちに同意した黒田とともに抜刀して幕府軍の先鋒に斬りかかりました」
K氏は、海江田信義本人が口述した『実歴史伝』が参考文献なので誇張されている可能性がありますが、と前置きしたうえで、信義の勇敢な突撃の結果をこう話す。
「この攻撃で敵軍(幕府軍)は揺らぎ、隊形を乱して放火して後退しました。このことから兄の活躍は見事と言えますね」
弟の有村國彦が戦闘で重症を負う
「同日1月3日に、弟の有村國彦(27歳)も鳥羽の戦いに軍監として加わりましました」
斥候を務めて敵の先鋒と戦っていた兄とは違い、弟は軍監を務めていた。つまり、兄弟で戦場での役割は違ったようだ。
ちなみに、軍監とは、軍目付けという戦場での将兵の監視役で、もともとは戦国時代の戦国大名の配下の武士が合戦中の勝手な行動を取らないようにする見張りで、合戦後の論功行賞を行うため、一番槍や首実検をするなど勲功を確認する役職として設けた職名の一つだ。軍目付は幕末ごろには軍監とも呼ばれるようになった。
「軍監、つまり監視役のはずの有村國彦は、なぜか後方に控えたりせず、兄と同じ戦場の前線で、兄と一緒に戦い、敵中に単身で突撃して敵兵を一人討ち取りました」
「敵中に突撃して一人を討ち取った後、有村國彦は敵の銃弾を膝から上の両脚に被弾して、地面に倒れこみました」
K氏は有村國彦が重症を負った直後の場面をこう語る。
「すると重症を負った國彦に即座に敵兵が殺到し、國彦が持っていた銃を奪います。そして國彦の首を打ち取ろうとしました」
「この危機に薩摩藩兵の溝口という男が國彦の助太刀に駆けつけます」
「溝口は國彦にとどめを刺そうとしていた敵兵を間一髪で倒して、國彦を助け起こしました」
有村國彦は味方に救われたようだ。
「しかしこの溝口は直後に別の敵兵の銃撃を受け、助けに来た溝口の方が落命する結果となりました」
なんということでしょう。160年前の戦場では現実にこんなに簡単に命が散ってしまっていたとは。しかもこの仲間思いの溝口という薩摩藩士が戦死した原因を有村國彦が作ったかのようで、どうにも後味が悪い。
「この溝口について、私はもっと知りたかったのですが、溝口の下の名前は不明で調べることができませんでした。溝口雄四郎俊粋(20歳)とする説も一部ではあります。ただしこの溝口雄四郎俊粋が戦死したのは3日ではなく、1月4日とされており日付が合いません」
「さて、國彦が重症を負い、溝口が戦死した場面を見ていた近くの名も知れぬ薩摩藩兵(友軍)は、敵に溝口の首が渡る前に、溝口の首を斬り落としました」
「そして重症の有村國彦と斬った溝口の首を抱えて帰陣しました。國彦は以降、戦闘に参加できなくなってしまいます」
「この光景をちょうど目撃していた兄の海江田信義(有村俊斎)は「弟を頼む」といって再び敵陣に突撃しました」
安否確認がしたくて有村國彦を探す兄
「鳥羽・伏見の戦いは1月6日まで行われますが、全日程とも日が暮れると両軍が引き上げたため、大規模な夜戦は行われませんでした」
「有村國彦が重症を負った1月3日の夕暮れ時、戦場から帰還した兄の海江田信義は弟の安否が気になり、弟の居場所を探します」
「このとき、8年前に長弟と次弟を亡くしていた海江田信義にとって、末の三弟、有村國彦だけが唯一存命の弟となっていました」
兄の海江田信義はK氏の予想通り、弟のことを思いやっていたという。
「結局、兄の信義は弟の重症の國彦が(担架代わりの)雨戸の板にのせられて、農家から出て運ばれてゆくのを目撃しました」
「國彦は一命をとりとめていましたが、意識はもうろうとしていて「もう大坂に達したか」などとうわごとを言っていました」
「一方、國彦の身代わりのように命を落とした溝口の方ですが、溝口の首は國彦の枕元に置かれていました」
「そのため、寝床で目覚めた國彦は、溝口の首を見ると、大いに憂い、沈んだ様子で、分別がなくなるほど悲しみ泣いて途方にくれることになりました」
海江田信義(有村俊斎)と有村國彦のその後
鳥羽・伏見の戦い(1868年:慶応4年:明治元年)の翌年に戊辰戦争が終結します。(明治2年)
明治時代になっても海江田信義と有村國彦の兄弟は活躍は続きます。
海江田信義の明治時代での活躍
・海江田信義は維新後、軍務官判事から、刑部大丞、弾正大忠を経て、奈良県知事、その後元老院議官、子爵となります。
(日本の華族の爵位は高位から【公爵→侯爵→伯爵→子爵→男爵】の順)
さらに、貴族院議員、枢密顧問官を務めました。
明治39年没。享年75歳。
K氏は「海江田信義は56歳の時にヨーロッパのウィーン留学をしているんですよ。あと、信義は薩摩藩士の中でも長命だったので、同じ誠忠組のメンバーだった西郷隆盛が最期を迎えたときや、大久保利通が暗殺されたときなどには、先立つ仲間を思い悲しんだようですよ」と教えてくれました。
有村國彦の明治時代での活躍
・有村國彦は維新後、西南の役で熊本鎮台の司令官を務めました。また、子爵となります。
さらに陸軍大臣、拓殖大臣、第五銀行頭取、島津家の財政顧問を勤めました。
明治 40年没、享年66歳。
K氏は「銀行マンがかつては戦場の実戦経験者だった! という時代もあったのですね」
と、國彦の銀行頭取という経歴に注目して、明治時代の面白さを語っていました。
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