はじめに
この記事は学術的な一次的系譜資料を中心に構成されています。藩翰譜・幕府系譜・『寛政重修諸家譜』などに収録された信頼性の高い実在資料を利用しています。
信頼性の根拠
- 『寛政重修諸家譜』は1789年から編纂された幕府公式系譜集で、松平容保の祖先から系統が記録されています (名言,電子書籍,雑誌情報「読書の力」, 国立公文書館)。
- また、幕末期飯野藩・会津藩関係系図を写本化した学術資料も、容保の養子関係や側室情報を示す一次史料として活用しました (city.futtsu.lg.jp)。
会津松平家の起源と保科正之
会津松平家は、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の庶子である保科正之を祖とします。正之は信濃高遠藩主保科正光の養子となり、後に出羽山形→陸奥会津藩へ移封されました。正之の死後、子・正容が1697年(元禄9年)に松平姓を許され、以後「松平会津家」として存続します (geocity1.com)。
『寛政重修諸家譜』巻第49「保科松平」には、その血統と婚姻系図が詳細に記されており、正容以降、正経、正頼、正純など歴代藩主の系譜が確認できます (rekimoku.xsrv.jp)。
松平容保の直系系図
以下が、容保関係を中心とした直系簡略家系図です。
略系図
保科正之(初代藩主)
└ 正容(改姓・三代藩主)
└ …歴代藩主… → 正経(後期二代)
└ 松平容敬(養父)
└ 松平容保(第九代藩主)†1893年
├ 正室:敏姫(容敬の娘、夭折)
├ 側室:佐久 → 息子:容大(斗南藩主)、健雄、英夫
└ 側室:名賀 → 恒雄ほか子女
- 容保の父母関係
容保は元来、高須藩松平義建の嫡男として生まれましたが、松平容敬に婿養子として入嗣し、会津松平家の第九代藩主となりました (city.futtsu.lg.jp, ウィキペディア)。 - 正室・敏姫
容保の正室は容敬の娘・敏姫で、14歳で婚姻し、19歳で夭折し子なしとされます (ウィキペディア)。 - 側室との間の子供たち
側室・佐久との間の子には容大(嫡男・斗南藩主)、健雄、英夫その他。側室・名賀との間には恒雄(華族・外交官)、美彌らがいます (ウィキペディア)。
系譜資料の解説と正統性
系譜資料の信頼性
- 『寛政重修諸家譜』は大名本家から提出された公式系譜であり、松平容保まで含め、父母・養子・婚姻・側室関係が網羅されています (国立公文書館)。
- 同じく『幕末期 飯野藩保科家・会津藩松平家関係系図』は、飯野藩(保科家)と会津藩(松平家)を連系して図示した写本系図で、容保の養子縁組関係や側室との子関係を視覚的に明示しています (city.futtsu.lg.jp)。
正統性のポイント
- 正室との子がいないこと → 正統な嫡流が側室由来という特殊性を持つ例として、戦国末期以降の婚姻・養子制度の柔軟性を示します。
- 養子継承の制度的必要性 → 会津藩の血統線を維持するため、外様から養子(容保)が迎えられた実例として注目されます。
斗南藩と容保の子孫に関する背景
戊辰戦争後、会津藩は領地没収とされ、容保は廃藩処分及び蟄居処分(後に赦免される)を受けました。明治2年(1869年)、容保の嫡男・容大に対しては斗南藩三万石が割り当てられ、斗南藩主として家名再興が認められました (ウィキペディア)。
- 斗南藩の生活
地方には肥沃な土壌がなく藩士は貧困となり、多くが寒冷地で命を落としました。明治4年の廃藩置県に伴い斗南県は弘前県に統合されました (ウィキペディア)。 - 容大の子孫と華族待遇
容大は明治17年に子爵を授かり、後に側室ラインの恒雄らは外交官・参議院議長など公職を歴任するなど、会津松平家の血統は明治以降も日本社会で一定の地位を維持しました (ウィキペディア)。
よくある質問(FAQ)
- 容保に実子はいたのか?
→ 正室・敏姫との間に子はいません。嫡男・容大は側室・佐久の子です。側室関係が系譜資料にも明記されています。 - 側室由来の子が藩主になって正統か?
→ 系譜上は側室由来でも藩の実務を継承し正統とされています。藩主後継に影響はなく、斗南藩主として再起用されました。 - 養子縁組の意義は?
→ 容保は高須松平家の血を引く嗣子ですが、養父・容敬に入嗣したことで、松平姓および会津松平家の家督を正当に継承できました。
◆ 家系図(テキスト表現版/図版併記例)
保科正之 (初代会津藩主)
└ 正容 (三代藩主・松平姓賜与)
└ …歴代藩主を経て…
└ 松平容敬 (養父)
└ 松平容保 (第九代藩主)
├ 正室:敏姫(夭折・子なし)
├ 側室:佐久 → 容大(嫡男・斗南藩主)、健雄、英夫、他
└ 側室:名賀 → 恒雄(外交官)、美彌 ほか
まとめ
松平容保は、保科正之→正容→容敬→容保という直系の流れを汲み、嫡男不在のため側室からの子を後継者とした第九代会津藩主です。その系譜は『寛政重修諸家譜』や『幕末期 飯野藩・会津藩関係系図』など一次資料で確実に確認でき、養子制度・側室子継承・家名再興の例として歴史的にも注目されます。
参考文献・一次資料
- 『寛政重修諸家譜』巻第49 保科松平系図(国立公文書館/国会図書館) (ウィキペディア, rekimoku.xsrv.jp)
- 『幕末期 飯野藩保科家・会津藩松平家関係系図』(市史料・学術写本) (city.futtsu.lg.jp)
- 『會津松平家』系譜概要(歴史解析資料) (ウィキペディア)
- 各種幕末・明治期公的記録および歴史年表資料に基づく年次記録 (レファレンス協同データベース, ウィキペディア)