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途中で『腕試しクイズ』も用意しているのでぜひお楽しみください。
1863年に芹沢鴨が暗殺。
1566年にやってきました。
炎上している建物の近くで芹沢鴨を見つけました。
さっそく生インタビューを実施していきます。
「なぜこの建物に放火したのですか?」
「なんじゃお前、斬られたいか」
「すみません」
「俺は浪士組(新撰組)局長、芹沢鴨。38歳じゃ。お前に話すことはない」
「仕方ありません」
「失せろ」
以下要約。
芹沢鴨の暗殺の原因。
芹沢鴨は当時から素行不良で有名な人物でした。
以下のような悪行が原因で芹沢鴨は暗殺されることになります。
江戸時代末期の京都の建物は現代とは異なりすべて【木造建築】でした。
鉄やコンクリートが混ざっていないので建物は燃えやすく、炎は周囲の建物に燃え移りやすく、そのため放火は大罪でした。
それにもかかわらず芹沢鴨は京都の商家に放火します。
それも新撰組の任務などではなく、ただの私的な腹いせが目的でした。
芹沢鴨は生糸を商う【大和屋】に金を借りようとしましたが断られたため8月12日に放火しました。
芹沢鴨は浪士30人以上を動員し、大和屋の土蔵を壊して火藁を入れて火をつけると、大切な商売道具や商品(生糸)までも炎の中で燃やしました。
また、炎上した大和屋は一条の葭屋町にあり天皇の御所の中立売御門とは1キロメートルも離れておらず(推定数百メートル)、風向きによっては御所まで燃える恐れがありました。
これまでも数々の悪行を行って来た芹沢鴨ですが、大和屋事件の放火という悪行が暗殺の決定的な原因となります。
大和屋の放火に朝廷は怒りました。
朝廷は新撰組を預かる会津藩に適切な処分を依頼しました。
会津藩(松平容保)から知らせを受けた新撰組局長の近藤勇は芹沢鴨の暗殺という制裁を決意します。
そして土方歳三に芹沢鴨暗殺の密命を下しました。
芹沢鴨から見た大和屋事件。
芹沢鴨は新撰組において近藤勇たちのグループと考え方が違いました。
元々水戸の天狗党出身である芹沢鴨は強い攘夷思想の持ち主でした。
幕府が開国要求を受け入れたことは芹沢鴨にとって許されざることでした。
実際に日本が開国すると貿易により日本国内の生糸が次々と海外に輸出されていきます。
すると当然日本国内の生糸の需要に供給が追い付かなくなり価格が高騰します。
芹沢鴨はやはり攘夷すべきだった。開国するべきではなかったと憤りを覚えていました。
特に外国との貿易で稼いでいる商人は許せませんでした。
生糸を外国に輸出して稼いでいる悪人、大和屋庄兵衛の大和屋は放火して懲らしめなければならないと考えました。
こうした側面もあり、こうした理由付けをして芹沢鴨は大和屋事件を引き起こします。
(芹沢鴨がこれより前に大和屋を脅して金を巻き上げようとして断られていたのも事実です)
芹沢鴨は建物の屋根の上から大和屋への放火を指揮しました。
御所の近くでの放火は朝廷から見ても幕府から見ても会津藩から見ても目に余る行為でした。
そのため暗殺という実力行使で暴走した芹沢鴨は処分されました。
新撰組は芹沢鴨に暗殺という制裁を加える。
この頃の新撰組(近藤勇派)は攘夷思想を封印して幕府に忠誠を誓っていました。【佐幕思想】
しかし芹沢鴨の一派は攘夷思想に固執していました。
そのため会津藩から芹沢鴨を処分するように指示された時、近藤勇や土方歳三が芹沢鴨の暗殺という制裁手段を決意することは難しくありませんでした。
新撰組の前身組織の創設メンバーであり実力者の芹沢鴨でしたが、この頃には近藤勇たちにとって邪魔な存在となっていました。
新撰組は一枚岩ではなかったのです。
また、大和屋事件が初めての悪行というわけでもなかったため、芹沢鴨の暗殺を止めようとする者はいませんでした。
芹沢鴨のこれまでの悪行
・気に食わない人物への鉄扇を用いた暴力。(愛用の鉄の扇は推定1キロ以上の重さ)
・島原の角屋での備品の破壊、店主への強引な営業禁止命令。(芹沢鴨に対する店の応対が悪かったというのが原因)
・他人(四条堀川の商家菱屋)の妾を物理的に奪う。(お梅という美人を自分の妾にする)
・大坂の新町の吉田屋で自らの意に沿わない芸妓とその中居の髪を切る。(小寅とお鹿が髪を切られる)
・大坂で力士集団(相撲取り)と喧嘩して力士の腕を斬り落とす。
以上の経過を経て、8月12日に大和屋事件を起こした芹沢鴨に対して、数日後には暗殺が実行に移されようとしていました。
ところが京都で起きた8月18日の政変によって芹沢鴨の暗殺は9月16日に延期されます。
9月16日は雨が降っていました。この日にいよいよ暗殺という制裁が実行されます。
土方歳三と沖田総司が芹沢鴨を暗殺する。
作戦決行日、近藤勇や土方歳三やターゲットの芹沢鴨たち新撰組のメンバーは会合を開きました。
会合場所は京都の島原の角屋です。
会合が終わると新撰組は酒宴に移りました。
芹沢鴨は部下とともに午後六時に酒宴を中座します。部下たちと二次会を楽しむためでした。
壬生村に帰った芹沢鴨は部下の平間重助や平山五郎たちと予定通り八木邸で酒盛りを始めます。
暗殺計画のために彼らに同行していた土方歳三もこの酒盛りに同席します。
酔いが回った頃、芹沢鴨たちに対して土方歳三は寝るように勧めます。
そして土方歳三はそっと八木邸を後にします。
暗殺を担う土方歳三は慎重を期します。ターゲットの芹沢鴨は強者が揃う新撰組の中でも抜きん出た凄腕の剣豪でした。
深夜(午後12時頃)、土方歳三は八木邸を訪れターゲットが寝静まっていることを最終確認します。
それから約20分後に芹沢鴨の襲撃が始まります。
刺客は玄関から静かに侵入した土方歳三、沖田総司、原田左之助、山南敬助の4人が務めました。
周到に用意された暗殺劇でした。
暗殺時の芹沢鴨
芹沢鴨は妾のお梅と同衾していました。
また、屏風一枚を隔てて芹沢鴨の部下の平山五郎も愛人と同衾していました。
部屋全体の広さは畳8~10畳ほどで、屏風で隔てられた部屋の北側に芹沢鴨は寝ていました。
そこへ選りすぐりの刺客、土方歳三と沖田総司の二名が襖を倒し、抜刀して切り込みます。
最初の一撃は沖田総司が浴びせますが致命傷には至りませんでした。
巻き込まれた芹沢鴨の愛人のお梅が首を斬られて死亡します。
覚醒した芹沢鴨は脇差しを抜くと沖田総司を斬りつけます。沖田総司は顔面に軽傷を負いました。
しかし土方歳三の強烈な一撃を浴びると芹沢鴨は縁側に逃れ、隣室に飛び込もうとします。
ところが暗闇の中で隣室の入り口に置かれていた文机につまずきます。
そこへ沖田総司と土方歳三から数太刀浴びて絶命します。
暗殺は成功しました。
芹沢鴨の出生が定かではないため享年には32歳説、34歳説、37歳説、38歳の諸説があります。(1863年没)
また、屏風を隔てて同室にいた芹沢鴨の部下の平山五郎も、原田左之助と山南敬助に斬られて落命しました。
平山五郎の愛人の吉栄は厠にいたため助かりました。
もう一人の部下の平間重助も愛人の糸里と寝ていましたが別室で寝ていたため暗殺の障害とはならず、平間重助は愛人とともに存命しました。彼はこの直後に新撰組を抜けて故郷の芹沢村へ帰り、その11年後に世を去ります(明治7年没)。
芹沢鴨の遺体は新撰組の手によって京都の壬生村の共同墓地に埋葬されました。
そして約一年後に同じく新撰組によって芹沢鴨の墓碑が建立されます。
参考文献。日本大百科全書。世界大百科事典。日本国語大辞典。国史大辞典。日本人名大辞典。日本大百科全書。他、図書館の多数の書籍。
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