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途中で『腕試しクイズ』も用意しているのでぜひお楽しみください。
これから芹沢鴨の天狗党に関する気になる事ランキングを紹介します。
第5位。そもそも芹沢鴨の加入した天狗党って何?
天狗党は幕末の水戸藩で結成された尊王攘夷思想を持った志士たちの組織です。
天狗党は徳川斉昭に水戸藩の家督を相続させようと運動したり、横浜港で外国人を斬って攘夷を実行する計画を立てたり、尊王攘夷思想に従った活動を展開していました。
また、1864年には挙兵して天狗党の乱を引き起こしています。【天狗党は敗北、投降します。天狗党員は828名中352名が処刑されて壊滅しました】
新撰組に参加する以前の芹沢鴨はそんな過激な組織に身を置いていました。
なお【天狗党】の名前の由来は、天狗党員を快く思わない勢力が、調子に乗っている天狗党員たちを【天狗になっている奴らだ】と呼んだのがきっかけだとされています。
第4位。芹沢鴨はなぜ天狗党に加入したのか? その理由。
ペリー来航以来、水戸藩では上級藩士から下級藩士、武士以外の一般市民まで尊王攘夷の思想が普及していました。
芹沢鴨の故郷である水戸の玉造村には【郷校】や【文武館】と呼ばれる水戸藩内に10数個ある学校のうちの一つが設置されていました。
当時その地方の天狗党員が大勢(100人近いとも)が玉造郷校を拠点として活動していました。
この玉造勢と呼ばれる集団の中に芹沢鴨がいました。
つまり芹沢鴨が天狗党に参加した理由はごく自然でありふれた理由でした。芹沢鴨は時代と周囲の環境によって天狗党に加入したのです。
第3位。芹沢鴨は天狗党で何をしていたのか?
芹沢鴨は天狗党員の玉造勢として活動していました。
「攘夷だ、攘夷だ! 日米修好通商場を朝廷の許可を得ずに結んだ井伊直弼は許せん!」
などと尊王攘夷派の志士らしく気勢を上げていました。
ところが見方によっては彼らは荒くれ者の集団です。
天狗党員(玉造勢)たちは外国人の住む横浜で外国人を斬って攘夷を実行する計画を立てます。
そしてこの横浜での攘夷を実行するための資金を豪商や豪農たちから集めます。
そのやり方は乱暴で、たとえば芹沢鴨は名主の伊能権之丞を1キロ以上の重さの鉄の扇で殴りつけます。
そんな玉造勢は水戸藩の圧力を受けて解散に追い込まれます。
芹沢鴨は藩に捕縛されないように伊能権之丞を鉄扇で殴った事件後から既に逃亡していました。
ところが色橋という名の遊女といるところを芹沢外記宅で取り押さえられます。
芹沢鴨は捕まった他の天狗党の48人とともに牢屋に入ることになります。(赤沼獄に入牢)
第2位。芹沢鴨は天狗党に戻ったのか?
厳しい獄中生活の中で病死する天狗党員たちも複数いました。
しかし芹沢鴨はしぶとく生き残ります。
2年近くも牢獄で過ごしたあと、水戸藩主の徳川慶篤の恩赦により解放されます。
その後は水戸を抜け出し江戸に向かいます。
つまり水戸の天狗党には戻りませんでした。
第1位。芹沢鴨と天狗党の乱
江戸での出来事です。
1863年のある日、清河八郎の立案により幕府が浪士を募集します。この浪士の募集は将軍・徳川家茂が京都に上洛する予定であったことと関係しています。
将軍が京都に乗り込む前に京都の治安を整えておく人員が必要であり、その人員として江戸近辺の浪士が募集されたのです。
芹沢鴨はこの浪士組に参加します。
そして江戸から京都に向かい、京都で新撰組の局長としての活動を開始します(正確には新撰組の前身組織の活動)
芹沢鴨が天狗党の乱に参加できなかった理由
芹沢鴨は日頃の悪行と大和屋という商家への放火が原因で制裁を下されます。
これにより芹沢鴨は土方歳三と沖田総司の手により寝込みを襲われ暗殺されます。
芹沢鴨の暗殺は1863年の9月であり、天狗党の乱(挙兵)は1864年の3月であったため芹沢鴨は天狗党の乱には参加することができませんでした。
また、もしも暗殺がなかった場合の推測も行われています。
その場合、新撰組には隊を抜け出したら切腹という厳しい隊規があり、水戸と京都の距離も遠いため、やはり芹沢鴨は天狗党の乱に参加することはなかったとされています。
芹沢鴨は牢屋を出て江戸に向かった時点で故郷の天狗党との関わりは限りなく薄くなっていました。
そのため後世では【天狗党の芹沢鴨】ではなく【新撰組の芹沢鴨】と呼ばれています。
参考文献。日本大百科全書。世界大百科事典。日本国語大辞典。国史大辞典。日本人名大辞典。日本大百科全書。他、図書館の多数の書籍。
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