武家屋敷で育った維新の風雲児に現代人が学べること


「おもしろき こともなき世を おもしろく」
この辞世の句とともに知られる幕末の革命児・高杉晋作。彼の起こした奇兵隊、藩内クーデター、そして時代を変えた行動力は、しばしば「天才的」「破天荒」と称される。だが、その“芽”はどこから育ったのか?
――その答えを探る手がかりは、彼の誕生地・山口県萩市にある。
萩の城下町、菊屋横町に今も残る高杉家の屋敷。現在は国の史跡に指定され、6畳・4畳の座敷、産湯の井戸、庭の石組みが一般公開されている。この邸宅の風情を前にしたとき、思わず立ち止まってしまった。
「偉人って、やっぱり“生まれ”から違うんですかね……」
そう語るのは、各地の維新史跡を巡っている歴史好き会社員・北村陽一さん(37)。高杉家は長州藩の「大組士」格、家禄200石の中上級武士。下級武士ではないが、藩政の中枢に直接食い込むポジションでもないという微妙な立ち位置だ。
しかし、この“中間層”こそが鍵だったと見る識者は多い。
明治維新史研究者・三宅恭平氏は語る。
「下級では門戸が狭く、上級では保守的になりがち。高杉は中堅クラスの家柄だからこそ、学問や政治に食らいつく必要があったし、逆に自由度もあった。これは、現代でいえば“大企業の若手管理職”のような立ち位置でしょう。伸びしろがあるが、プレッシャーもある。その緊張感が彼を育てたのです」
事実、晋作は幼少から藩校・明倫館に通い、和歌や漢詩に親しんだ。その後は吉田松陰の松下村塾へ。さらに江戸・京都・上海と世界を股にかけて知見を深めた。
ここで重要なのは、「家柄が整っていたからこそ、次のステージへの“扉”が開かれていた」ということだ。藩士としての身分がなければ、松陰との出会いも、海外渡航もなかったかもしれない。
建物の内容と位置も参考にした考察
一方で、当時の誕生地を見て「思ったより質素だった」と語る人も多い。観光客の一人で建築関係の仕事をしているという歴史ファンの川島明子さん(41)はこう述べる。
「建物はこぢんまりしていて、庭も小さい。だけど、整った空間には余白がある。情報やモノが溢れた今の時代にはない、集中力と想像力が育つ空間だと思いました。環境が豪華だったんじゃなくて、“考える余白”があったからこそ、彼は大きく羽ばたけたのではないでしょうか」
さらに注目すべきは、高杉家が萩城下の「中心」ではなく、やや外れに位置していたことだ。この“距離感”もまた、体制に対して反発心を持つ素地を育てたのではないかという見方もある。
つまり、偉人は特別な血筋だけで生まれるのではなく、“背伸びができる家柄”“ほどよい制約”“自由に思索できる環境”といった「条件」が揃ってこそ育まれるのではないか。そうした観点から見ると、高杉晋作の誕生地は、まさに“偶然が重なった必然”ともいえる。


今、私たちは偉人を「才能」や「熱量」で語りがちだが、実際には、「才能」の開花や「熱量」の多くは“育った場所”によって形作られている。
萩の古びた屋敷に身を置き、静かに風を感じていると、そんな当たり前の真実が、ふと胸に落ちてくるのだった。
やはり、「偉人は家から生まれる」のだ。
けれど、その“家”とは、血統ではなく、空間と精神の土壌のことかもしれない。
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