当ブログ【れふかん】では歴史のエンタメ性を重視しています。
途中で『腕試しクイズ』も用意しているのでぜひお楽しみください。
1556年に墨俣一夜城が完成。
1566年にやってきました。
出来立ての墨俣城の近くで豊臣秀吉(木下藤吉郎秀吉)を見つけました。
さっそく生インタビューを実施していきます。
「墨俣一夜城をいったいどうやって短期間で築城したのですか?」
「なんじゃお前、これから斎藤攻めの準備で忙しいというのに」
「すみません」
「まあ良い。俺は木下藤吉郎秀吉。29歳じゃ。何が聞きたい?」
豊臣秀吉の身長は150cm前後でした。しかし存在感があります。
「墨俣一夜城に関するあらゆる話が聞きたいです」
「わかった。一夜城と呼ばれるこの墨俣城の話を特別に聞かせてやろう」
以下要約。
墨俣一夜城とは?
1566年、尾張国(≒愛知県の西半分)は織田信長が支配していました。
尾張の織田信長は美濃(≒岐阜県)の攻略を狙っていました。
しかし美濃を支配する斎藤氏は強力な敵です。
織田信長は何度か美濃に進出しますがなかなか斎藤氏を倒すことができません。
そこで織田信長は墨俣と呼ばれる場所に拠点となる城を築こうとします。
墨俣に城を築くことに成功すれば、織田軍が斎藤氏の本城である稲葉山城を攻略するときに有利になります。
しかし斎藤氏もそれをわかっているので墨俣城の築城を妨害してきます。
織田信長配下の有力武将である佐久間信盛や柴田勝家が墨俣城の築城に挑戦しますが失敗します。
困った織田信長は、身分が低い者でも墨俣に城を築くことができる人物がいるならば任せることにします。
この出世の機会を逃さなかったのが豊臣秀吉(木下藤吉郎秀吉)です。
豊臣秀吉は当時足軽頭の身分でしたが、柴田勝家にもできなかった墨俣城の築城を請け負いました。
墨俣一夜城のエピソード
墨俣一夜城は一夜城と呼ばれていますが実際には築城に三昼夜がかかりました。
豊臣秀吉はまず約2000名の人員を集めます。
人員の中には75名の鉄砲隊などもいましたが、その大半は野武士や土豪たちでした。
豊臣秀吉は自身の人脈と努力によりこれだけ多くの人々を集めました。
人員が集まったので豊臣秀吉は墨俣一夜城を築くための準備に入ります。
この準備には2か月間かかりました。
まずは墨俣の横を流れる木曽川の上流に移動します。
木曽川上流で材木を一万本以上伐採し、筏を作ります。
筏としてまとめられた材木は木曽川の中流で岸にあげて加工されます。
有名なエピソードですが、豊臣秀吉はここで奇抜なアイディアを発揮します。
現代人からしたら当たり前のことですが、前例のない当時においては天才的な発想ともいえるプレハブ工法の準備を行なったのです。
つまり、木材が加工場から下流の墨俣に届けられると、すぐに大工たちが組み立てられるような加工のされ方がこの中流の加工場でなされました。
ただ上流から下流に木材を送り届けるのではなく、中流で一度加工を加えたのちに下流に木材を届けたのが豊臣秀吉の一番頭脳的な部分です。
この墨俣一夜城のエピソードの対象となる木材は前述の通り1万本以上でした。
墨俣一夜城の逸話
下流の墨俣に筏で届けられた木材はおよそ10棟の長屋、およそ10棟の櫓に組み立てられました。
築城中の土地の周囲には堀と木柵が巡らされていました。
人員の半数は墨俣一夜城の築城に、残りの半数は斎藤氏による工事の妨害に備えました。
こうして逸話通りに工事はとんとん拍子に進み墨俣一夜城が完成しました。
喜んだ織田信長は墨俣一夜城を豊臣秀吉(木下藤吉郎秀吉)に与えます。
以後墨俣一夜城が斎藤氏を攻略する拠点として活躍したのも有名な逸話です。
具体的には十四条の戦いや稲葉山城攻撃では墨俣一夜城は出撃拠点して活用されました。
当時の墨俣一夜城は砦。その後(現在)は城。
現在、墨俣一夜城城址公園として岐阜県大垣市に歴史資料館として城が再建されています。
しかしこの城は大垣城の天守を参考に平成3年に築いた架空の城であり、当時の墨俣一夜城は砦でした。
この砦が十分に機能したため斎藤氏は圧力を感じ、また豊臣秀吉は織田信長に気に入られ出世のきっかけのひとつとなりました。
ただ残念なことにこの本物の墨俣一夜城(砦)は、1586年(本能寺の変の4年後)に起きた木曽川の反乱により戦略的価値を失ってしまいます。
今までは交通の要衝に面していた墨俣一夜城が、木曽川の流れが変わったことでただの田舎に孤立する砦となってしまいました。(斎藤氏も既に滅亡していました)
そして墨俣一夜城は豊臣秀吉本人によって放置され、やがて廃城とされました。
参考文献。日本大百科全書。世界大百科事典。国史大辞典。他。
歴史エンタメ【動画】