こんにちは!私は青森在住のごく普通(?)の高校二年生、為子(ためこ)。
…なんだけど、実は前世が戦国武将・津軽為信でした。そう、あの「津軽藩の祖」って呼ばれてる人間、それが私。びっくりでしょ?
今回は、そんな私が“戦国モード”で生きた人生をざっくり語ってみるね!
歴史の教科書じゃ語られない、リアルな「下剋上体験」、聞いてって!
◆ 津軽為信 年表
年(和暦) | 年齢(推定) | 出来事 |
---|---|---|
1550年頃(天文19年) | 0歳 | 津軽地方に生まれる。※出自には諸説あり(南部氏の庶流説が有力) |
1571年頃(元亀2年) | 約21歳 | 大浦城を居城とする「大浦為信」として記録に登場。南部家臣として活動開始か |
1582年(天正10年) | 約32歳 | 南部氏から自立の動きを見せ始め、津軽地方の支配を目指す |
1585年(天正13年) | 約35歳 | 南部氏との戦い激化(大浦城攻防戦など)、津軽地方の諸城を平定 |
1586年(天正14年) | 約36歳 | 南部信直との関係完全決裂。津軽為信として独立色を強める |
1590年(天正18年) | 約40歳 | 小田原征伐に参陣し、豊臣秀吉に謁見。→ 津軽地方の領有を正式に安堵され、大名として認知される |
1594年(文禄3年) | 約44歳 | 嫡男・津軽信建(のぶたけ)死去。後継に弟の信枚(のぶひら)を指名 |
1600年(慶長5年) | 約50歳 | 関ヶ原の戦い。日和見的立場ながら最終的に東軍寄りで、徳川家からも所領を安堵される |
1607年(慶長12年) | 約57歳 | 死去。法号は「長徳院殿徹誉義厳大居士」。津軽信枚が後を継ぎ、弘前城の築城を進める |
◆スタートは「南部家のいち家臣」でした
うち、最初は「南部家」っていう東北の有力な大名の家臣やってたの。
今でいう「大企業の地方支社長」みたいな立ち位置かな。
でもね、「このままじゃ地元の津軽が搾取されるだけやん」って思って…
ぶっちゃけ独立したくなったんよね。
◆とりあえず裏切ってみた(※戦国時代あるある)
で、思い切って主君の南部信直を裏切ったの。
いまなら完全にSNS炎上案件だけど、当時は「それもまた戦国よ」って感じ。
周辺の安東氏とか秋田氏とコソコソ手を組んで、
地元・津軽の豪族たちをどんどん制圧していったよ。
リアルに**“ガチの下剋上”**、始まったわけ。
◆豊臣秀吉に取り入って、あっさり大名になる
敵が多くてヤバかったんだけど、そこで目を付けたのが豊臣秀吉さん。
1590年、小田原征伐のタイミングで「どうもー!津軽代表の為信でーす!」って参上。
そしたらなんと!
「いいじゃん、君の領地認めたるわ!」って、秀吉様に津軽一帯の支配を安堵されました✨
マジで政治力勝負。ここで南部家との格差、決定的に広がった感じ。
◆あとは“地元発展”に全集中!
で、大名になってからはガチでインフラ整備に力入れたよ。
たとえば:
- 弘前(当時の鷹岡)に拠点を移す
- 城下町の整備を開始
- 息子・信枚が後に弘前城を築く礎をつくる
自分で言うのもアレだけど、「地方創生」の先駆けじゃね?
てか、ちゃんと後継者にもバトン渡してるし、エラくない?
◆戦国ラストバトル? 関ヶ原はスルーしました
関ヶ原の戦い(1600年)では、ガチで悩んだよ。
西軍?東軍?どっちに賭ける?って。
結果としては東軍(徳川家康)に“寄った”けど、ガッツリは参戦せず。
いわゆる**「日和見ムーブ」**ってやつ。
でも最終的に徳川幕府にも領地を認められたから、
結果オーライってことでよくない?(笑)
◆まとめ:戦国時代って、マジで“生存力ゲー”でした
私の戦国人生、ざっくり言うとこう:
時期 | イベント |
---|---|
1550年頃 | 津軽に生まれる(出自はいろいろ説あり) |
1582年頃 | 南部家を裏切って独立ムーブ開始 |
1590年 | 小田原征伐に参陣 → 豊臣秀吉に取り入る |
1600年 | 関ヶ原戦 → 徳川政権下でも生き残る |
1607年 | 死去(享年50代後半) |
◆転生JKから現代の皆さんへ一言
「田舎の家臣が大名になるとか夢物語やん」って思うかもだけど、
あの時代、夢と謀略と行動力があれば、マジで何でもアリだったんよ。
現代もある意味、戦国よね。
自分の信じた道、ちゃんと選べてる?
JKに転生した津軽為信 でした✨
またねっ!

※当ブログ【歴史ファンの玄関:れふかん】は、本人に語らせるスタイルの歴史解説が持ち味となっております。