【れふかん】の目標はより多くの方々に歴史ファンになっていただくことです。
歴史のエンタメ性も重視しているため途中で【腕試しクイズ】も準備しています!
この記事では浅野長政と伊達政宗の関係についてまとめています。
伊達政宗が浅野長政にとても怒っていた事実。
浅野長政について調べていると、【伊達政宗と仲が悪い】という記述を発見しました。
歴史好きの管理人がさっそく調べたところ、どうやら伊達政宗が浅野長政に対して腹を立てる出来事があったようです。
これにより伊達政宗は浅野長政に【絶縁状】を叩きつけ、絶縁状は記録として現在まで残っています。
いったい浅野長政の何がそんなに伊達政宗を怒らせたのか?
その理由は【伊達政宗の部下が何者かに殺害されたから】でした。
あれ? 浅野長政はあんまり関係ないのでは?
そう思った私はさらに浅野長政と伊達政宗の関係について掘り下げてみました。
伊達政宗が浅野長政に絶縁状を送った理由。
1596年、伊達政宗の家臣が殺されるという伊達家にとっての大事件が発生しました。
どうやら事件が起きたのは伊達政宗の領国の東北地方ではなく、秀吉のおひざ元の近畿圏だったようです。
自分の職権が及ばないエリアで発生した事件であるため、伊達政宗は自分では対処のしようがありません。
そこで伊達政宗は浅野長政にこの事件の真相を調べて適切に対処するようにに依頼します。
そのための協力も惜しまず、政宗は事件の目撃者も浅野長政の元に遣わしました。
しかし浅野長政は政宗に満足のいく回答をしませんでした。
そもそもきちんと調査は行われたのか? 浅野長政は犯人を知っていてかばっているのではないか?
そんな疑念も心に浮かび、伊達政宗はついに激怒して絶縁状を浅野長政に送りつけました。
時に伊達政宗は29歳、浅野長政は49歳でした。
ただ、この【家臣暗殺説】は資料の裏付けは取りにくく、反対に【絶縁状】の内容はしっかりと記録が残っていました。
さすが戦国大名の伊達政宗。浅野長政への怒り方が伝わる絶縁状。
伊達政宗は絶縁状の中で浅野長政への不満を正面からぶつけています。
この絶縁状は、18歳で家督をついで奥州を制覇した猛将らしい手紙だ、ともよく言われています。
その内容は、罵詈雑言というよりは、恨みつらみをつづったような内容になっています。
たとえば以下のような内容です。
「小田原征伐の後、(浅野長政)が俺に自分の領地を手放す手続きをさせただろ。恨んでるからな。返せよ」
「朝鮮出兵は浅野長政のせいで上手くいかなかった。恥もかいたし恨みもあるぞ」
「俺の旧領を秀吉から与えられて、俺を監視してくる蒲生氏郷を俺が嫌っているのを知っているだろ? なんで蒲生と親しくするんだ? するな」
「浅野長政に突きつけたこの絶縁状は秀吉に見せても構わない。領地を取り上げられることになるかもしれないが、それでも俺はこの怒りを浅野長政にぶつけたかった」
この絶縁状は浅野長政と伊達政宗の関係を悪化させるには十分なものでした。
さて、絶縁状に書かれていた内容についてですが、もし伊達政宗の主張が真実であるとすれば、何も悪くないにもかかわらず不利益を被っている伊達政宗が気の毒です。
しかし、この不利益の原因が伊達政宗の言う通りすべて浅野長政にあるかといば疑問を挟む余地が残されています。
伊達政宗の旧領が没収されたのも、朝鮮出兵がうまくいかなかったのも、蒲生氏郷が政宗を監視するのも豊臣秀吉の指令によるところが大きいはずです。
豊臣秀吉に直接文句は言えないので、不満のはけ口がすべて浅野長政に向いているという見方もできます。
浅野長政は伊達政宗のために便宜を図ったことがあった。
伊達政宗は浅野長政に【感謝状】を送ったこともあったの?
と、私は新たな事実を知って驚きました。
伊達政宗は感謝状を、それも直筆のものを浅野長政に送っていました。
時期はもちろん絶縁状を送る以前のことで、内容はだいたい以下のようになります。
「浅野長政さんへ、小田原征伐の際、幽閉されて豊臣秀吉に殺される可能性もあった俺を助けてくれてありがとう。あなたのとりなしのおかげで大名のままでいることができます。これからもよろしくお願いします」
どうやら浅野長政が便宜を図ってくれたことを伊達政宗は喜んでいたようです。
政宗は、浅野長政にずっとこの時のままの、自分にとって頼りになる存在のままでいて欲しかったのかもしれません。
しかし残念ながらそうはなりませんでした。
浅野長政と伊達政宗の共通の趣味
その後、絶縁した浅野長政と伊達政宗の子孫もそのまま絶縁状態を維持していました。
たとえば1712に広島藩主の浅野吉長と仙台藩主の伊達吉宗の間に和解の可能性が浮上します。
これは徳川綱吉の時代の文治政治に活躍した朱子学者の林信篤という人物が「大名どうしで仲が悪いのは良くない」と、仲介を申し出たためでした。
しかし116年ぶりの和解は結局は行われることがありませんでした。
そして平成6年【1994年】にようやく浅野家と伊達家の末裔が茶事の催しを行い、和解が実現しました。
伊達政宗の絶縁状がきっかけで398年という長い年月が浅野家と伊達家を分断し続けた結果となりました。
そんな浅野長政と伊達政宗ですが、豊臣秀吉の死後は共に徳川家康に味方しています。
徳川家康は囲碁を好んでいたため、伊達政宗、浅野長政、織田信雄といったメンバーの囲碁を楽しむグループを形成していました。
徳川家康が囲碁仲間の浅野長政と伊達政宗を対局させたかは定かではありませんが、二人が囲碁と言う共通の趣味を持っていたということははっきりとした事実であります。
「絶縁状さえなければ浅野長政と伊達政宗は楽しく一緒に囲碁で遊べたのに」
と感じるものの、戦国武将同士の人間関係も難しかったようです。
参考文献。日本大百科全書。世界大百科事典。日本国語大辞典。国史大辞典。日本人名大辞典。日本大百科全書。他、図書館の多数の書籍。
歴史エンタメ【動画】