途中で【腕試しクイズ】と【千屋寅之助クイズ】の2種類のクイズを用意しています。どうぞ最後までお楽しみください。
千屋寅之助とは? わかりやすく解説
千屋寅之助(菅野覚兵衛)は庄屋の三男として1842年に土佐(高知県)で生まれます。
千屋寅之助は成長すると当時の幕末志士らしく、土佐勤王党(尊王攘夷思想の組織)に参加します。
その後同郷の坂本龍馬と親しくなり、千屋寅之助は大坂の勝海舟の門下に入ります。
勝海舟の下では西洋の船に関する知識を学びました。
やがて師匠の勝海舟は神戸に海軍操練所を開きます。千屋寅之助も坂本龍馬とともに神戸に移動します。
しかしその神戸海軍操練所は勝海舟が失脚したため閉鎖されてしまいます。
神戸海軍操練所のメンバー(約200名)は所属組織が閉鎖されて困ります。
そこで千屋寅之助は坂本龍馬たちとともに長崎県で亀山社中を結成します。(約50名)
亀山社中では、千屋寅之助は亀山社中の船のユニオン号で船長(キャプテン)を務めました。
幕末当時の日本人がイギリス製のユニオン号を『船長』として指揮できるというのは凄いことでした。
当時の日本人で西洋の船を操縦できる人材は非常に限定的でした。
また、千屋寅之助は第二次長州征討に際して長州藩に味方します。ユニオン号を操り勝利に貢献しました。
(敵艦を沈めた数などの具体的な戦果が記録されているわけではありませんが、高杉晋作指揮下の小倉口の戦いに参加したという記録は残されており、この戦いで長州側が勝利しています)
亀山社中やその後継組織である海援隊時代の千屋寅之助は、重要人物として坂本龍馬をよく助けました。
時は流れ、1867年になると坂本龍馬は京都で暗殺されます。
坂本龍馬の暗殺後は、千屋寅之助は海援隊の仲間とともに坂本龍馬の暗殺犯を探して敵討ちをしようとしたり、海援隊士の同僚である沢村惣之丞とともに長崎奉行所を接収しようと考えたりします。
また、千屋寅之助は未亡人となった坂本龍馬の妻のお龍の生活も支援しました。その背景には千屋寅之助がお龍の妹と結婚したこともありました。
さらに海援隊解散後は白峰駿馬とともに5年間のアメリカ留学を経験し、造船技術や海軍の新知識を学びました。帰国すると千屋寅之助は明治政府の海軍に奉職します。
階級は少佐でした。
そしてこの海軍時代に西南戦争にかかわります。
このとき千屋寅之助は鹿児島の磯島造船所の責任者を務めていました。
千屋寅之助は敵に弾薬を奪われないように弾薬庫に注水しました。
千屋寅之助はその後海軍を辞め、福島で開拓に従事します。しかし上手くいかず再び海軍に復職します。
そして52歳で病没しました。
千屋寅之助をもっと詳しく
・千屋寅之助のアメリカでの留学先は『ラトガース大学』
・アメリカ留学の費用にはいろは丸事件の賠償金を使用した。
・父の名前は民五郎
・従兄の名前は千屋菊次郎・千屋金策
・友人の名前は高松太郎(坂本龍馬の甥)・安岡金馬
・組織の活動とは関係ないが、同じ土佐出身の同僚の廣井磐之助が父の仇討ちをする際に、千屋寅之助が立会人となった。立会人にはもう一人新宮馬之助がいた。なお、廣井磐之助は無事に父の仇である棚橋三郎を紀伊(和歌山)で討つことができた。父の仇を探し続けて9年以上が経過していた。その後廣井磐之助は27歳の若さでで亡くなった。
・海援隊の解散後、千屋寅之助は石田栄吉とともに新政府軍として奥羽征伐も戦った。(つまり東北地方の戦いにも参加した)
千屋寅之助の性格や人柄についての正確な記録は残されていませんが、実戦経験を重ねた最後の侍の一人だったことから、同じ日本人でも現代人とは随分違うことが想像されます。
坂本龍馬と千屋寅之助
坂本龍馬と千屋寅之助は同郷で土佐出身ですが、面識を持ったのは互いが京都に上京していたときだとされています。
その後、坂本龍馬と千屋寅之助はともに勝海舟の門下に入ります。
亀山社中・海援隊時代は軍事面で千屋寅之助はリーダーの坂本龍馬を助けました。それに加えて千屋寅之助は貿易や交渉事などでも坂本龍馬を支えました。
また、坂本龍馬が京都で暗殺されたときには千屋寅之助は海援隊の仲間とともに大坂の薩摩屋にいました。
この訃報に際して千屋寅之助は海援隊の同志(長岡謙吉・高松太郎・沢村惣之丞・安岡金馬・野村辰太郎・八木彦三郎ら)とともに大坂から京都に駆け付けました。
坂本龍馬の死後は坂本龍馬の遺言に従い、坂本龍馬の妻のお龍の末の妹【楢崎君江】と結婚しました。
これにより坂本龍馬と千屋寅之助は義兄弟となりました。
参考文献。日本人名大辞典。他。
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