途中で【腕試しクイズ】と【亀山社中クイズ】の2種類のクイズを用意しています。どうぞ最後までお楽しみください。
亀山社中とは?
亀山社中とは坂本龍馬をリーダーとする浪士集団の組織名です。
幕末乱世の中で日本の海防のための活動、そのための海運業やビジネスを志していました。
幕府やどこの藩にも属さずにこうした活動をしていた組織は当時でも異例であり、活躍もしたため歴史上に名を残す有名な組織となりました。
亀山社中の前身。勝海舟の海軍塾と神戸海軍操練所。
亀山社中の結成以前、その構成員たちは勝海舟の海軍塾に所属していました。
つまり、亀山社中の原点はこの勝海舟の海軍塾にあります。
幕臣である勝海舟の海軍塾は大坂にありました。塾生は全国各藩から広く集められていました。
その中には土佐浪士の坂本龍馬たちもいました。
海軍塾では大坂と江戸を行き来する船を実際に使って蒸気船の操船技術が教えられていました。
勝海舟はその後幕府の軍艦奉行に昇格し、海軍塾も幕府の【神戸海軍操練所】になり神戸に移転します。そして【神戸海軍操練所】では総勢約200名が勝海舟の門下に入ります。
この頃には坂本龍馬は既に勝海舟の右腕・塾頭となっていました。
亀山社中の結成理由と名前の由来。
しかしそれから一月後~二月後、幕府の機関である【神戸海軍操練所】の門下生の中に、あろうことか幕府の敵である尊王攘夷派の志士が複数潜んでいたことが相次いで発覚します。
まず池田屋事件で幕府の新選組に襲われた望月亀弥太は幕臣勝海舟の門下生でした。
次に禁門の変の際に幕府の敵である長州藩に味方していた土佐浪士の安岡金馬もまた勝海舟の門下生でした。
このことが原因となりわずか五か月後に勝海舟は失脚します。
指導者を失った神戸海軍操練所は閉鎖されます。
行き場を失った者たちの一部は拠点を長崎に移し、坂本龍馬を中心とした新しい組織を結成しました。
これが【亀山社中】です。
約50名からなるこの組織は当初【社中】とだけ名乗っていました。
【社中】という単語には同じ志を持った人々による集団という意味があります。
この【社中】の構成員は長崎の亀山焼と呼ばれる焼き物をしていた人々の家の跡地を宿舎として使用していたため、これにちなんでのちに社中の頭に【亀山】を付けて【亀山社中】と改称しました。
日本初の株式会社。
亀山社中の構成員(脱藩志士約20名+水夫約30名)のうち、20名の脱藩志士たちは薩摩藩から毎月3両2分の手当を受け取っていました。
しかし亀山社中が完全に薩摩藩に従属していたわけではありません。
確かに薩摩藩から支援を受けてはいたものの、【亀山社中】はいずれ海運ビジネスを通して経済的自立を成し遂げることを目指していました。
薩摩藩が亀山社中を支援する思惑
薩摩藩は当時、幕府との戦争になった場合に備えてたくさんの浪士を抱えていました。
その浪士集めの一環として、いざというときの貴重な【海上戦力】とするために、蒸気船の操船技術を学んだ神戸海軍操練所の出身者たち(亀山社中)にも薩摩藩は資金援助をしていました。
また、亀山社中がビジネスで大儲けができるようになればその利益の一部が薩摩藩に還元されるだろうという思惑もあったようです。
こうしたことから、経営者と資本提供元が別々である亀山社中は日本で初めての株式会社と呼ばれるようになりました。
亀山社中の失敗
薩摩藩が購入し、亀山社中に貸し与えられた西洋式の帆船はワイルウェフ号といいました。
このワイルウェフ号ですが、初めての航海で嵐に巻き込まれてしまい五島列島沖で沈没させてしまいました。
こうして亀山社中が自分たちの船を失ったことは亀山社中の経営難の一因となります。
また、グラバー商会から長州藩が武器を購入する際の仲介役なども亀山社中は務めましたが、仲介手数料は徴収せずにほとんど無償で働きました。
現代では仲介手数料は取引総額の何%などと定めますが、亀山社中は僅かな礼金を長州藩から受け取っただけでした。
当時は仲介手数料のような概念がなかったためですが、これはすなわち亀山社中がいくら武器の仲介を頑張ってもほとんど儲けがないことを意味しています。
船もなく、ビジネスも上手くいかない亀山社中は人件費も賄えないほどの経営難に陥りました。
亀山社中の逸話。
船を失った亀山社中は水夫たちに給金を支給することができなくなりました。
亀山社中は仕方なく大量解雇に踏み切ります。
坂本龍馬は約30名の水夫たちに「給金が支給できないので他の所へ行ってくれ」
と伝えます。
しかし残された逸話によると、水夫たちは「金はいらないから自分たちを亀山社中に置いてくれ」と答えます。
そして水夫たちはしばらくほぼ無給状態で過ごしました。
亀山社中の活動の内容と活躍。
亀山社中の初めての仕事は薩摩藩に頼まれた長州藩への偵察任務です。
そこで亀山社中は『長州藩は薩摩藩を敵視している。また、長州藩が西洋の武器を購入することを切望している』と把握します。
長州藩は第一次長州征討で幕府軍に敗北して以来、外国からの武器の購入を幕府に禁止されていました。
そこで亀山社中は動きます。薩摩藩の名義で武器を購入して長州藩に武器を送る計画を立てました。
そのためには薩摩藩が長州藩と和解することが必要です。
両藩の間のクッションとしても『民間組織』である【亀山社中】は有用でした。
また、坂本龍馬を初め亀山社中は日本国内で二大雄藩(長州藩・薩摩藩)が争ってはいけないと考えていました。積極的に二藩を和解させたいと考えていたのです。そのために奔走します。
亀山社中の具体的な活動内容としては例えば、長崎に来た長州藩の井上聞太(馨)と伊藤俊輔(博文)を亀山社中の近藤長次郎が薩摩藩の家老、小松帯刀(清廉)に引き合わせました。
そして小松帯刀の了承により長州藩が薩摩藩の名義を使って武器の購入をすることを可能にします。
また、亀山社中はスコットランド人のグラバーが創設した【グラバー商会】が薩摩藩の名義を使用している【長州藩】と武器取引を行う仲介をしました。
これによりグラバー商会から【ミニエール銃4300挺】【ゲベール3000挺】【軍艦ユニオン号1隻】などが武器を渇望していた長州藩の手に渡ります。
亀山社中は仲介手数料(中間マージン)こそ取らなかったものの巨額の取引を成立させたことになります。
坂本龍馬が「60両あれば大人の男一人が1年間生活できる」といっていた時代に、その取引総額は
【ミニエール銃7万7400両】【ゲベール銃1万5000両】【軍艦ユニオン号3万7700両】、【総計13万100両】にのぼりました。
亀山社中の戦闘参加。第二次長州征討。
慶応二年(1866年)第二次長州征討を受けて第二次幕長戦争が起こります。
ここで亀山社中は長州軍側の助っ人として参戦します。
坂本龍馬を筆頭に千屋寅之助(菅野覚兵衛)や石田英吉などの亀山社中の面々はユニオン号に乗り込み長州(山口県)の下関に駆け付けました。
このユニオン号は亀山社中の仲介で長州藩が薩摩藩の名義でグラバー商会を通じて購入したイギリス製の軍艦です。このときは長州藩が『乙丑丸』と改名していました。
開戦すると乙丑丸は小倉口の戦いに参戦します。
小倉口における長州藩の司令官は高杉晋作でした。乙丑丸をはじめ軍艦五隻が高杉晋作の指揮下にありました。
また、乙丑丸では坂本龍馬が指揮官を務め、千屋寅之助(菅野覚兵衛)が艦長、石田英吉が砲手長となり初実戦を経験しました。
高杉晋作配下の長州軍は門司や田ノ浦を占領して勝利しました。
また、この戦い全体でも長州藩が各地で幕府軍を破りました。
亀山社中と坂本龍馬。
その後、坂本龍馬は初実戦のことを姉の乙女に手紙で報告しています(乙女ではなく兄への手紙とも)。
そこでは「まことに面白きこと」とつづられています。
手紙では他にも、亀山社中の代表として坂本龍馬が長州藩主・毛利敬親に直接謁見して会話を交わしたことも記されています。
坂本龍馬は褒美として長州藩主・毛利敬親から羅紗の洋服を拝領しました。
坂本龍馬の亀山社中での活躍。
亀山社中での活動全体を通して坂本龍馬はリーダーとして中心にいました。
亀山社中が組織として向かうべき方向を定めていたのは坂本龍馬です。
そのため直接的に活躍していなくとも亀山社中の手柄は間接的に坂本龍馬の手柄にもなります。つまり亀山社中を組織したこと自体が坂本龍馬の最大の功績になります。
また、自らの身体を使った功績としては、亀山社中時代の坂本龍馬が京都で長州藩と薩摩藩を接近を手助けしたことも挙げられます。
薩摩藩と長州藩を和解させることは坂本龍馬の強い信念に基づいていました。
慶応二年の一月に長州藩代表の木戸孝允と薩摩藩代表の西郷隆盛が密談を行い薩長同盟が成立しました。
その際に坂本龍馬は同席し、木戸孝允の求めによって裏書きの記録を残しています。
薩長同盟を成立させたことが亀山社中時代の坂本龍馬の最大の功績です。
薩長同盟のために奔走したのは坂本龍馬だけではなく、多くの幕末志士の努力によってもたらされたものが薩長同盟です。
とはいえ坂本龍馬の活躍も大きく、もし日本史上に坂本龍馬が存在しなかったら薩長同盟は結ばれずに終わり、日本の歴史は今とは変わっていたかもしれないと言われています。
亀山社中のその後。海援隊へ。
その後、亀山社中は経営難から土佐藩の支援を受けることになります。
第二次長州征討における長州藩の勝利が、今まで土佐浪士を危険視していた土佐藩の態度を変えました。
潮目の変わりに気づいた土佐藩は薩摩藩と長州藩と繋がりを持ちたいと考えるようになります。
そこで土佐藩の家老・後藤象二郎は、薩長両藩と太いパイプを持った坂本龍馬と亀山社中に目をつけました。
土佐藩家老・後藤象二郎は坂本龍馬の江戸遊学時代の仲間である土佐藩士・溝渕広之丞の協力も得て、長崎で龍馬に近づきます。
そして亀山社中の土佐浪士の脱藩罪を許し、水夫たちの分も含めた資金的援助も行うことを条件に、亀山社中を土佐藩の外郭団体としました。
隊士への仕送り額は亀山社中時代の一人当たり月3両2分から一人当たり月5両へと上積みされました。
それ以後、薩摩藩から支援を受けていた【亀山社中】は土佐藩から支援を受ける【海援隊】へと構成員をほとんど変えずに生まれ変わります。
このとき誕生した海援隊は幕末の動乱の中で活躍を続けます。
そして坂本龍馬の死後、海援隊の隊長は長岡謙吉が引き継ぎますがしばらくして海援隊は解散します。
その後、海援隊の構成員の一定数は三菱財閥を興した岩崎弥太郎の会社に吸収されました。
岩崎弥太郎は長崎に出張していた土佐藩士で、土佐藩から海援隊に給金を渡す仕事を務めていました。
坂本龍馬とも酒を酌み交わした仲でした。
また、新政府に仕えた元海援隊士も多くいました。
参考文献。維新史料綱要。日本大百科全書。世界大百科全書。国史大辞典。日本人名大辞典。日本人物文献目録。他。
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