西暦 | 出来事 | 年齢(数え年) |
紀元前1809年頃(推定) | 小国、バビロン王国の王子として生まれる。【バビロン第一王朝】 | 1歳(推定) |
紀元前1792年頃(推定) | 父、シンムバリルトの跡を継いで、 ハンムラビがバビロン王国第6第国王になる。 | 18歳(推定) |
紀元前1787年頃(推定) | ハンムラビがイシンを奪取する。 ウル・ウルクの都市も占領した。 | 23歳(推定) |
紀元前1786年頃(推定) | ハンムラビがイアムトバルへ遠征する。 | 24歳(推定) |
紀元前1784年頃(推定) | ハンムラビがマルグム軍と交戦して勝利する。 | 26歳(推定) |
紀元前1783年頃(推定) | ハンムラビがユーフラテス川のほとりの 重要都市、ラビクムを占領する。 | 27歳(推定) |
紀元前1763年頃(推定) | ハンムラビがラルサを占領する。 | 47歳(推定) |
紀元前1761年頃(推定) | ジムリリムをハンムラビの支配下に収める。 | 49歳(推定) |
紀元前1759年頃(推定) | ハンムラビがマリを占領し、アッシリアも支配下に入れる。 (余談:アッシリアは後に独立して約千年後にはオリエント初の統一国家を築く。 ただし、【アッシリア】と言う名前は同じであるが、千年後の帝国期のアッシリアとどの程度のつながりがあったのかは不明な部分も多い。 そのため同一視されず、区別されている。) | 51歳(推定) |
紀元前1756年頃(推定) | エシュヌンナを占領する。 | 54歳(推定) |
紀元前1755年頃(推定) | ハンムラビ法典を制定する。 | 55歳(推定) |
紀元前1750年頃(推定) | ハンムラビ王が没する。息子のサムスイルナが跡を継ぐ。 | 60歳(推定) |
ハンムラビ王の一番凄いところ
今回はハンムラビ王の家臣の視点からの解説になります。
初めまして。私はハンムラビ王の家臣です。
ハンムラビ王のことなら何でも知っています。
これから私がハンムラビ王についての解説を務めさせていただきます。
さて、まずはハンムラビ王の一番凄いところをお話します。
それはメソポタミアを統一したことです。
日本でたとえると、徳川家康が日本を統一したような凄いことでした。
ちなみに二番目に凄いことはハンムラビ法典を制定したことです。
ハンムラビ王が統一したメソポタミアはどこにあるの?
ハンムラビ王のバビロン第一王朝は今のイラクのあたりにありました。
この王朝も最初は『都市国家』であったためイラク全土を支配していたわけではありません。徐々に領土を拡大していきます。
また、このバビロン第一王朝が王国として開かれたのは紀元前19世紀頃のことでした。
王朝名の由来は簡単で、都がバビロンという都市にあったため【バビロン第一王朝】と呼ばれています。
ハンムラビ王はこの【バビロン第一王朝】の6代目の国王です。
ちなみに、バビロン(バビロニアとも呼ぶ)の【バビロン】という名前には【神の門】という意味がありました。
このバビロンは多くの敵に囲まれていた『都市国家』でした。そこからハンムラビ王がすべての周囲の敵を倒してメソポタミアを統一します。
メソポタミアには『川の間の土地』という意味があり、ティグリス川とユーフラテス川に挟まれた地域のことを指します。
古代の四大文明の一つであるメソポタミア文明においても、このバビロン第一王朝は重要な地位を占めていました。
ハンムラビ王の生涯
ハンムラビ王は各都市国家同士が争っているメソポタミアのバビロンに生まれました。
そして紀元前1792年頃にバビロン第一王朝の第5代目国王である父のシンムバルリト王の後を継ぎます。
第6代目の国王として即位したハンムラビ王は多くの敵に【領土】を狙われていました。
即位して早々にバビロンは危機を迎えていたのです。東西南北のすべてに敵がいました。
しかしハンムラビ王はラルサ王から都市【イシシ】を攻略し、マグルム軍との合戦にも勝利し、都市【ラピクム】も支配下に入れます。
さらには東の強敵にも打ち勝ちます。
エシュヌンナという都市のイバールピエール2世に打ち勝ちます。また、マリ王国も占領します。
このマリ王国の国王は、前マリ王国の国王からマリ王国を乗っ取り即位した人物です。(とはいえ、この国王は前前マリ王国の王家の人物です。つまり前々王家の人間が前王家からマリ王国を奪い現王家を開きました【ややこしいです】)
このマリ国王は王に即位したあともスパイを使ったり財産を蓄えたりと中々優秀な国王でした。ハンムラビ王の実力を見抜いたあたりも名君といえます。
しかしそんな国王と比較してもハンムラビ王の方が上回っていました。
ハンムラビ王は当初はマリ王国の国王と同盟を結んでいましたが、同盟締結の2年後にはこのマリ王国を攻め滅ぼしてしまいました。
こうしてハンムラビ王は次々と敵を倒してメソポタミアの統一を果たしました。
メソポタミア統一後のハンムラビ王の政治
ハンムラビ王はメソポタミア統一後には中央集権化に務めました。
また、灌漑のための運河建設など、治水工事にも力を注ぎました。
加えて【ハンムラビ法典】を制定しました。
ハンムラビ法典が凄い
当時のメソポタミアでは既に文字が発明されていて【楔形文字】が使用されていました。
しかし紙の発明はまだ行われておらず、文字は【粘土板】に記されました。ただし【ハンムラビ法典】は玄武岩に記されたものが発見されています。
ハンムラビ法典の内容は、同害復讐の復讐法の原則に基づきながらも、身分による刑罰差があるものでした。
同害復讐とは「目には目を、歯には歯を」というハンムラビ法典中の有名な言葉からわかります。
ハンムラビ法典を適用すると、自分の目が相手に傷つけられた場合は、法律により相手の目も同じように傷つけることができるように定められていました。歯も同じで、自分の歯が折られたら相手の歯も折ることができます。
この原始的な法律はしかし、効果的でした。
例えば、大商人が市場を独占するために、一般の商人の右腕を折って市場から追い出そうとしたとします。今までの場合は一般の商人は腕を折られても泣き寝入りするしかありませんでした。
しかし法律があることにより、大商人は一般の商人の腕を折るような暴力的なことはしにくくなりました。同害復讐を受けたくないからです。
特に目撃者が多くいるような場所では法律が執行されることを恐れて悪事を働くことができませんでした。
このようにハンムラビ法典は当時の人々に利益を与えていました。
ハンムラビ法典は立場の強い人から立場が弱い人を守るためのものだったのです。
もし法律がなければ強い人間が野生の獣のように弱い者を対象にしてにやりたい放題ができてしまいます。
この意味でハンムラビ法典は人々を救いました。
ただし、身分差がある場合は対等に同害復讐が適応されませんでした。
例えばある奴隷身分の人間がある商人により右足を折られたとします。
被害を受けた奴隷はしかし、法律により商人の右足を折ることはできません。
被害を受けた奴隷は、加害者である商人の持ち主の【奴隷】の右足を折ることしかできませんでした。
この場合一番可哀そうなのは、ただ持ち主が加害者だっただけで足を折られてしまう加害者の奴隷です。
奴隷が受けた被害は奴隷に復讐することが【同害復讐】とされていました。
とはいえ、この法律は3700年前にしては画期的な法律でした。
特にこのハンムラビ法典が最も偉大だったのは、バビロンという一都市に限らず、メソポタミア全土に同じ法律が定められていたことです。
これにより法律の制定の遅れていた地域の市民も法律の恩恵を受けることができました。
これはハンムラビ王がメソポタミア全土を統一したからこそできたことでした。
このことからもメソポタミアは当時の他の地域よりも法律の行き渡った相当に進んだ地域と呼ぶことができます。
紀元前1700~1800年頃の日本人は法律どころか文字すら知りませんでした。
日本に限らず世界を見ても、メソポタミア文明は当時相当進んでいました。
まとめ。家臣から見たハンムラビ王
私もハンムラビ王に従いメソポタミア統一のために数々の戦場で戦いを行いました。当時の戦場では、鉄の武器を使用していませんでした。
鉄の武器の発明がまだ行われていなかったため『青銅器』の武器を使用して戦いました。(鉄の武器の発明は紀元前1500年頃)
『青銅器時代』の王の中では、ハンムラビ王は1、2を争う優れた王様でした。
『青銅器時代』 にメソポタミア全土を統一した著名な王の名前としては、ハンムラビがアッカドの『サルゴン1世』以来2人目であり、素晴らしい快挙でした。
また、シュメールの『ウル・ナンム法典』を凌ぐ知名度を持つ【ハンムラビ法典】は青銅器時代における最高級の法典だったといえます。
(ウル・ナンム法典は最初の法典で後世に影響を与えたことが素晴らしく、ハンムラビ法典は前例のないほど広い地域に法律の恩恵を与えた点が素晴らしい。共に当時にしては最高級の法典)
バビロンという一つの都市国家から、メソポタミア全土を支配下に置くほどに急成長を果たし、古代世界において異例ともいえる功績を残したハンムラビ王は偉大な王でした。
参考文献。日本大百科全書。世界大百科事典。日本国語大辞典。国史大辞典。日本人名大辞典。日本大百科全書。他、図書館の多数の書籍。
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