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本能寺の変で無念の最期を遂げた織田信長。
この記事ではその子孫についてとことん迫ります。
織田信長の子孫をまずは嫡男の血筋から見ていきましょう。
織田信忠の血統の子孫。
織田信長の嫡流の子孫の血筋とはつまり、織田信忠の血筋になります。
『織田信忠』は織田信長の長男です。
父は織田信長で、母は久庵慶珠と呼ばれる詳細不明の人物で、養母は濃姫(帰蝶)でした。
織田信忠は嫡男だったので、将来織田信長から織田家の家督を継ぐことになっていました。
しかし織田信忠は本能寺の変で明智軍に攻められて自刃します。
織田信長は享年49歳、織田信忠は享年25歳でした。
両名の亡きあとに織田信長の嫡流の血統は、嫡男である織田信忠のそのまた嫡男である織田秀信(幼名:三法師)、つまり織田信長の嫡孫に受け継がれます。
このとき織田秀信(三法師)はわずか3歳でした。
時は流れ、やがて豊臣秀吉の天下が訪れます。
成長した『織田秀信』は、この豊臣秀吉に従い大名になりました。
織田信長の子孫で嫡流の孫『織田秀信』
織田秀信は祖父の織田信長や父の織田信忠がかつて居城としていた岐阜城及び美濃13万石を秀吉から与えられます。
ところが豊臣秀吉が世を去り、1600年に関ケ原の戦いが勃発します。
この戦いで西軍に味方した織田秀信の人生は暗転します。
織田秀信は居城である岐阜城に籠城して東軍を迎え打ちます。
しかし壮絶な戦いの後に岐阜城は落城します。
その後、関ケ原の戦いの処分として織田秀信は徳川家康によって改易されてしまいます。
そして高野山(和歌山県)に追放されることになりました。
ところが、高野山の方では織田秀信の祖父・織田信長がかつて行った高野山攻めを根に持っていたため、その嫡流の子孫である織田秀信の受け入れを拒みます。
その後なんとか出家が許された織田秀信ですが、高野山への入山後も迫害を受けます。
そんな状況で織田秀信は下山をやむなくされ、高野山の麓で26年間の生涯を閉じました。
享年が26歳という若さだった理由としては自刃説と病死説があります。
しかしそのどちらだったのか明確にはわかっていません。
なお、自刃説を採用すると、織田家の親子三代全員が自刃したことになります。
こうして26歳の若さで世を去った織田秀信には公式に確認することができる子孫を残していませんでした。この結果、織田信長の嫡流の子孫は途絶えてしまいます。
ただし、非公式ではありますが織田秀信は子孫を残していたという説が存在しています。
その根拠は以下のように言われています。
・織田秀信には正室がひとりと継室がひとり、側室がひとりかふたりいた。
・享年26歳と若いが、子孫を残していてもおかしくはない年齢である。
このことから織田秀信には息子が3人、娘が1人いたという可能性も存在しています。
しかし3人の息子(織田秀朝・織田恒直・織田某(不明))の存在には明確な根拠がなく、文献もなく、いずれもその子孫の自称が根拠となっています。
ただし実際に妻が何人もいたことから全くの嘘と断言することもできません。
記録に残っていないのだから織田信長の嫡流の血筋が表向き途絶えたことは事実ですが、実は『大名』から『庶民』の身分になった嫡流の子孫が今もどこかで暮らしていても不思議ではありません。
不思議ではありませんが、やはり嫡流の血筋が途絶えたと認定されている事実が変わることはないでしょう。
一方、織田秀信の一人娘の方ですが、彼女は六角義郷の側室として嫁ぎ六角氏郷を産んだという説が『江源武鑑』という書物に書かれています。
しかしこの書物の信頼性は極めて低いとされています。
このような流れをたどり織田信長→織田信忠→織田秀信の嫡流の血筋は途絶えるに至りました。
公式には織田信長の嫡流の子孫が途絶えていることがわかったので、次は織田信長の次男の『織田信雄』血筋の話に移ります。
織田信長の次男の織田信雄の血統の子孫。
本能寺の変で織田信長と嫡男織田信忠は世を去ります。
これとは反対に、織田信長の次男である織田信雄は本能寺の変の後も生き残ります。
さらに関ケ原の戦いの後も生き延びます。(西軍の味方をしたと見なされて所領は没収)
また、大坂の陣もくぐりぬけます。(徳川家の味方をして大名に復帰)
そして『織田信雄』の家系は現代まで存続しました。
では、織田信雄の後は誰が子孫として織田信長の血筋を引き継いだのでしょうか。
織田信雄の四男と五男が織田信長の子孫として血筋を引き継いだ
織田信長の次男の『織田信雄』の血筋を引き継いだのは織田信雄の四男と五男(織田信長の孫)たちです。
長男は関ケ原の戦いの後に改易されてしまい、次男と三男に関しては両名とも早世してしまっていました。このため子孫として織田信長の血脈は残せたのは織田信雄の四男と五男でした。
四男、織田信良の子孫
織田信雄の四男は名前を『織田信良』といいいました。
織田信良は上野小幡藩(群馬県)に2万石を与えられていました。
しかし途中で出羽高畠藩(山形県)に移動させられました。
この出羽高畠藩(山形県)からさらに、のちに天童藩(山形県)へ移ることになります。
こうして最終的に織田信長の子孫は山形県で暮らすことになります。
そして時代は明治へと移ります。
天童藩最後の藩主の織田信敏は明治政府の廃藩置県を経験します。
織田信敏は華族となり『子爵』となります。(爵位は五爵。公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の順)
そんな織田信敏の養嗣子(娘婿)となった織田信恒は四コマ漫画の『正チャンの冒険』で知られ、大正時代に『正チャン帽』などの流行を産みました。
彼の描いた『正チャンの冒険』は新聞連載されるほどの四コマ漫画でした。
主人公の少年『正チャン』と相棒の『リス』による様々な冒険の旅を描かれていました。
西洋的なセンスにあふれた絵柄と童話を思わせる幻想的な物語が当時の読者に大好評を博しました。
また『正チャン帽』と呼ばれる連載途中から主人公がかぶることが増えた、大きなボンボンが頭上についている帽子が大正時代の子どもたちの間で大流行し、当時の子供たちはみんな被りたがりました。
『正チャンの冒険』の作者織田信恒は婿養子なので、彼の子ども(長男と次男)は『母』から織田信長のバトンを引き継ぎました。
長男は『織田信正』氏、次男は『織田信昭』氏で、長男の『織田信昭』氏の子である『織田信弘』氏が織田信長の血筋を現在に残しています。
そして現在でも天童市との交流が続いているようです。
五男、織田高長の子孫。
現代まで続く織田信長の子孫の血筋は他にもあります。
それが織田信長の次男の織田信雄の五男の織田高長の血筋です。
織田信雄の五男の織田高長の系統は大和宇陀松山藩(奈良県)に3万1千石(のちに2万8千石なる。3000石を藩主の実弟に分与する)を与えられていました。
その後江戸時代中期に減封されて丹波柏原藩(兵庫県)の2万石の藩主となります。
なお、この五男系の織田家といえば、3000石を3代藩主のときに実弟に分与しています。
その3000石をもらった『織田長政』の直系の子孫が大正・昭和期に版画家として活躍しています。
織田信長→織田信雄(次男)→織田高長(五男)→織田長政(三男・分家)→(分家した織田長政の直系の子孫たち)→織田一磨【大正時代】。
そんな血筋の『織田一磨』氏ですが、彼は昭和6年と大正6年にそれぞれ以下のような版画を残しています。ご鑑賞ください。
とことんまで織田信長の子孫について知っておこう。『津田』姓の織田信長の子孫。
『津田』姓。それは、織田信長の子孫たちの名字です。
天童藩(山形県)及び柏原藩(兵庫県)の両織田家は、藩主が一部の息子たちに『津田姓』を与えて家臣として分家させることがありました。
この一部の息子たちというのが、つまり織田家の藩主と『側室』の間に生まれた子供たちです。
具体的には織田高長の五男、津田頼房の系統や織田信浮の十男の津田長郷の系統などがあります。
両家とも明治期まで家系が存続していることが確認されています。
両津田家は明治期に華族となり、子爵を与えられました。(爵位は五爵。公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の順)
明治以降の資料はありませんが、第二次世界大戦を生き延びていれば、現代でも織田信長の血を引く末裔が『津田姓』で生活されているものと思われます。
織田信長には11人の息子がいた。彼らの子孫は?
織田信長には11人もの息子がいました。
しかし次男以外の息子たちは誰一人として江戸時代の大名・藩主にはなりませんでした。
三男~十一男の九人は本能寺の変で最期を迎えたり、関ケ原で改易にされたり、細々と生き残ったりしました。
ここから先はこの九人に関してシンプルにまとめていきます。
三男。織田信孝
織田信長の三男・織田信孝は、本能寺の変の際、四国遠征の総司令官として摂津国(大阪府北中部)にいたため無事でした。
しかし、父織田信長の亡きあとは羽柴秀吉との覇権争いに敗れ天正11年(1583年)に自害しました。享年は25歳でした。
織田信孝は子孫を残さずこの世を去りました。
しかし、明治期には彼の子孫を自称する家が各地にあったようです。
ただやはり織田信長の三男の家系は途絶えたと見るのが大方の見方になっています。
四男。羽柴秀勝
織田信長の四男・羽柴秀勝(於次丸)は、本能寺の変以前に豊臣秀吉(羽柴秀吉)の養子となります。
そして子供に恵まれなかった羽柴家の跡取りとなります。
しかし天正13年(1585年)に病死しました。(本能寺の変の三年後)
享年は18歳でした。
毛利輝元の養女と婚約はしていましたが、実際に結婚をする前に世を去ったため子孫は残していません。
五男。織田勝長(信房)
織田信長の五男・織田勝長(信房)は、本能寺の変では長兄の信忠と共におり、二条城で奮戦したのち戦死しました。
享年は20歳前後と推定されています。
彼は子孫を残していて、長男・織田勝良(津田勝良)は前田利長に仕えて600石を知行しました。
大坂の陣では前田利常の馬廻りとして参陣しました。
首級を一つあげる活躍を見せ、織田信長の孫らしい武勇を垣間見せました。
子孫も代々金沢藩士として続きました。
現代の情報は公開されていませんが、男系の子孫は現在も津田姓で生活しているものと思われます。
六男。織田信秀
織田信長の六男・織田信秀は、織田信長の『父』の織田信秀と同性同名です。
この織田信長の六男の織田信秀は本能寺の変の際には元服前でした。
本能寺の変に際しては美濃(岐阜県)の仏照寺に避難して難を避けていました。
本能寺の変後は豊臣秀吉の家臣になり、父信長より与えられていた美濃の揖斐の所領を安堵されました。
織田信秀は没年不明ながら、関ケ原の合戦以前に京都で病死してしまいました。
織田信秀の死後、長男の織田重治(信長の孫)は理由不明ながら父の遺領を継げませんでした。(所領・屋敷の没収および士分の剥奪)
次男・虎法師も賊徒に殺害されてしまい、後継ぎはいなくなり、家は断絶してしまいます。
家が断絶したということは、その子孫も同様です。
除封(所領・屋敷の没収および士分の剥奪)された長男が子孫を残していたかは不明ですが、もし子孫を残していたとしても、何代にも渡って庶民にまじっているため家系図などあるはずもなく、現代では庶民との判別が不能となっています。
織田信長の六男の家系はこうして断絶してしまいました。(子孫は現代にいるかもしれないが判別不能)
七男。織田信高
7男・織田信高の系統は徳川幕府の旗本となり、後に高家旗本になりました。近江国内で2,000石余りを領有し、9代・織田信真で維新を迎えています。子孫が現代にいる可能性は高いが公開されていません。
八男。織田信吉
8男・織田信吉は、秀吉から近江国神崎郡および犬上郡で2千石を与えられます。関ヶ原では西軍の大谷吉継に属し、主将吉継はじめ大半の同陣諸将が討ち死にしたものの、信吉は戦場を離脱しました。戦後に改易となり、長男・織田良甫の子である織田吉雄は京極高国の家臣になりました。子孫の詳細は不明です。
九男。織田信貞
9男・織田信貞も秀吉から近江国の神崎郡、蒲生郡内に1,000石の所領を与えられたが関ヶ原後に改易されます。長男・織田信次は病気がちであったが、その子(信貞の孫)である信幹は、尾張藩主・徳川光友に召し抱えられて、家老にまで抜擢されます。また、貞幹の次男・長居は分家し、同じく尾張藩に仕えました。
信貞の次男・織田貞置は、寛永元年(1624年)、父に代わって再び1000石余が与えられ旗本(のちに高家)となります。(後に分知により700石余りに減りました)
貞置の3男・貞則、4男・貞輝は分家し、それぞれ旗本になりました。静岡藩主・徳川家達に仕えた織田泉之は貞輝の子孫です。
貞置の孫・津田長経は、高家織田家の嫡子であったものの、病気のために嫡子の地位を退き、近江国神崎群河合寺村に閉居します。その子孫である織田瑟瑟(おだ しつしつ(津田貞秀の長女・政江)は江戸時代後期の画家として知られています。子孫を現代に残している可能性は高いですが情報は公開されていません。
十男。織田信好
10男・織田信好も秀吉の家臣になり、のちに茶人となったが慶長14年(1609年)に病死します。子孫は残していない可能性が高く、残していたとしても庶民に混じっていて詳細不明です。
十一男。織田長次
11男・織田長次は、関ヶ原では兄・信吉と同じく西軍の大谷吉継に属し、戦場から脱出できず戦死します。ほかに信忠の上に、庶長子で信正がいたという説がありますが、実在したかまた信長の実子か不明です。 孫は残していない可能性が高く、残していたとしても庶民に混じっていて詳細不明です。
織田信長の子孫まとめ
織田信長の子孫として家系図が現代まではっきりとしているのは、織田信長の次男の織田信雄の系統になります。
一方で、現代の日本で織田姓の名字を持つ人は約33400世帯あり、日本で601番目に多い名字となっています。
また、織田姓以外の庶民に紛れた織田信長の血筋も含めるとその数はさらに多くなります。
つまり子孫である『可能性』がある人は日本中に大勢いることになります。
一方で『正式』な織田信長の子孫の家系を求めるならば織田信雄の家系ただ一つになります。
参考文献。日本大百科全書。世界大百科事典。日本国語大辞典。国史大辞典。日本人名大辞典。日本大百科全書。他、図書館の多数の書籍。
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