【裏切者と激闘】赤塚の戦いとは? 織田信長19歳の命運の掛かった一戦。

萱津の戦い 織田信長
萱津の戦い
れふかん編集委員
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途中で『腕試しクイズ』も用意しているのでぜひお楽しみください。

赤塚の戦いは織田信長の家督相続後すぐに起こる

戦い
戦い

織田信長の父、織田信秀は1552年3月に病没します。

織田家の家督は嫡男の織田信長が相続しました。

しかし19歳の織田信長は家中で【うつけ】と呼ばれ評判が良くありませんでした。

そのため家督相続からわずか1か月後の4月に事件は起こります。

鳴海城主の家臣の山口教継やまぐち のりつぐと息子の山口教吉やまぐち のりよしが今川義元側に寝返ります

織田信長に対する裏切り者第一号です。

裏切った山口父子は今川家の軍勢を織田領内に引き入れました。

これに対して織田信長が出陣して赤塚の戦いが勃発します。

山口教継から見た赤塚の戦い

山口教継 イメージ
山口教継 イメージ

山口教継は織田信長の先代、織田信秀の頃から活躍していました。

山口教継は織田信秀から対今川家の重要拠点である鳴海城を任されていました。

山口教継の今までの活躍

1542年、織田信長が9歳の頃、父の織田信秀は今川義元と三河を巡って小豆坂の戦いを行います。

そこで戦功を挙げた織田方の武将の一人として山口教継は数えられています。

今川方から見れば山口教継は厄介な敵で、織田方から見れば頼もしい家臣でした。

さらには外交の場でも山口教継は活躍し、織田家と今川家の一時的な和解も成立させます。

山口教継は有能な人物でした。

ただし、山口教継は織田信長の力量を斎藤道三のようには見抜くことができませんでした。

山口教継から見た織田信長と今川義元

織田信秀の亡き後、山口教継は冷静に表面的な現状を分析します。

百戦錬磨の今川義元とうつけの19歳の織田信長。

そして自分は織田家の家臣で、今川家との国境近くに配属されている。

今川家の軍勢が織田家に攻め込んで来れば真っ先に自分は被害を受ける。

今川義元
今川義元
織田信長
織田信長

家族や自分が生き残るためにはどうすればいいのか。

織田信長と今川義元を天秤にかけた結果、山口教継は今川義元とではなく織田信長と戦う道を選びました。

この決断が赤塚の戦いに結びつきます。

赤塚の戦いも望むところ

山口教継が赤塚の戦いやその先で今川家に味方して織田信長と戦うことにはメリットがありました。

例えば赤塚の戦いなどで今川義元が連戦連勝をしたとします。

そして織田家を滅ぼし尾張の織田家の領地を丸ごと今川家が手に入れたとします。

すると山口教継も今川方に味方した褒美としてたくさんの恩賞にありつける可能性がありました。

もしかしたら山口教継自身の領地が何倍にも増えるかもしれない。

その意味でも山口教継にとって赤塚の戦いは重要な意味を持っていました。

今川方に寝返りを打診されたときに山口教継が誘いに乗るのは自然な選択でした。

山口教継は鳴海城に今川方の軍勢と5名の今川方の武将を引き入れます。

織田信長の出陣。いざ赤塚の戦いへ

出陣
出陣

年を重ねた織田信長は【柴田勝家・羽柴秀吉・明智光秀・滝川一益】など有能な部下たちに各方面の戦いを任せるようになりましたが、19歳の頃の織田信長は自ら槍を手に敵と対峙していました。

赤塚の戦い桶狭間の戦いはその一例です。

赤塚の戦いでは織田信長の軍勢は800名ほどでした。

この800名の侍を従えて織田信長は鳴海城に向けて出陣します。

出陣
出陣

山口教継は鳴海城を息子の山口教吉に預け、自らは笠寺に砦を構えて織田信長軍に備えます。

これに対して織田信長は中根を経て古鳴海の三の山を陣取りました。

山口教吉が鳴海城を出陣

鳴海城を任されていた山口教継の息子の山口教吉は城を出て織田信長軍との決戦を挑みます。

このとき織田信長軍は800名。対する山口教吉は1500名でした。

織田信長は城から出てきた山口教吉を迎え撃つために三の山から移動します。

そして赤塚の地で午前10時に両軍は赤塚の戦いの火蓋を切って落とします。

命運を掛けた赤塚の戦い

戦い
戦い

両軍とも元織田軍の兵士たちは顔見知りです。

それでも赤塚の戦いでは互いに容赦なく殺し合います。

激しい接近戦になりますが両軍どちらかの優劣が決することはなく、赤塚の戦いは長引きます。

数で劣る織田信長の軍は奮戦したのち30名が討ち死にを果たします。

1500名の相手に対して織田信長は800名で挑んでいますが、それで討ち死にが30名というのは優秀な戦績です。

とはいえ1500名もの敵を撃破することはできずに赤塚の戦いは幕を閉じます。

戦いを初めて2時間後の正午頃、決着が着かないまま両軍は赤塚から引き揚げました。

赤塚の戦いの結果は引き分けでした。

なお、撤退する相手に対して両軍とも追撃戦は行いませんでした。

赤塚の戦いの逸話

赤塚の戦いが終わると互いに顔見知りだったこともあり、互いが捕虜にした兵士の交換を行います。

さらに互いの敵陣に逃げてしまった軍馬の交換まで実施されました。

馬

これは赤塚の戦いの後の平和な場面です。

対照的に、赤塚の戦いの最中の逸話としては、矢に打たれて落馬した武将の身体を両軍の兵士が引っ張り合ったというものもあります。

こうした場面のあった赤塚の戦いですが両軍の撤退とともに終結しました。

赤塚の戦いのその後

その後
その後

結局、元織田領だった鳴海城近辺の土地は今川領に編入されます。

さらに山口教継は戦わずして付近の大高城と沓掛城も手に入れます。

巧みな調略が行われたとされています。

赤塚の戦いの戦後、情勢は今川方に有利となりました。

形勢が不利になった織田信長は丸根砦と鷲津砦を国境近くに築いて対抗します。

そして織田信長と今川義元との決着はのちの桶狭間の戦いでつきます。

それまでの期間は今川方の有利、織田方の不利が続きました。

山口教継・山口教吉の切腹

切腹
切腹

一方で山口教継と山口教吉父子はほどなくして今川義元に切腹させられます。

この切腹には二つの説があります。

一つ目の説は、今川義元は国境近くの城はいつ裏切るかわからない者ではなく信頼できる部下に預けたかった。だから邪魔な山口父子を始末して代わりの者を鳴海城に送った説。

もう一つの説は、織田信長が今川領内で『山口父子が今川義元を裏切って織田信長に味方するぞ』という噂を流した。それにより疑いを抱いた今川義元が山口父子を切腹させたという説です。

いずれの説にせよ山口父子にとっては皮肉な結果となりました。

戦国時代に、今川と織田の国境沿いに領地を持っていたことが山口父子の最大の不幸だったかもしれません。

とはいえ山口父子がもしも織田信長を裏切っていなければ、織田信長が天下を取った際には山口父子が前田利家や柴田勝家のように一国一城の主になれていたかもしれません。

赤塚の戦いは引き分けで終わりましたが、戦後に山口父子はこのように哀れに消えていきました。

織田信長の躍進

一方で当時19歳にして800人対1500人の不利な戦いに負けなかった織田信長は、ここからさらなる成長を果たします。

家督相続後の初戦となる赤塚の戦いでは勝利を飾ることができませんでしたが、2戦目の萱津の戦いでは初勝利を収めます。

対戦相手は清洲城の勢力でした。

さらにその先も織田信長は多くの戦いを経験していきます。

織田信長はまさにこの赤塚の戦いから天下取りの道を歩み始めました。

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参考文献。信長公記。織田信長合戦全録。他

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