【最後】織田信勝と織田信長。織田信勝が兄弟で戦う理由。織田信勝の生涯。

織田信勝 織田信長
織田信勝
れふかん編集委員
れふかん編集委員

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途中で『腕試しクイズ』も用意しているのでぜひお楽しみください。

織田信勝(織田信行):兄を倒して織田家の家督を継ごうとした実弟。

織田
織田

武将データ

名前:織田信勝(=織田信行)

誕生:1536年。

続柄:次男(正室の子としては)

母:正室の土田御前(信長や信勝、お市などを生んだ)。

性格:真面目。

結婚:既婚。息子は織田信澄

失敗:信長に謀反を起こしたこと。

戦歴:稲生の戦いで兄の信長に敗北。

死因:騙されて、病気と聞いていた信長の見舞いに訪問すると殺された。

・1536年、織田信勝は信長のすぐ下の弟に生まれる。

生まれる
生まれる

次男、織田信勝(信行)は、織田信秀の長男である信長の弟として1536年に信長と同じ母、土田御前(信秀の正室)から生まれました。

名前は、信長公記では『信行』と記述されていますが、実際に本人が書状などにサインする際に使用していた名前は『信勝』でした。

織田信勝(信行)と兄の織田信長との歳の差はわずか2歳でした。

長男とは扱いが違った。

喜ぶ
喜ぶ

父である織田信秀は、信長(信勝の兄)の誕生を知ると、喜びのあまり興奮して「強く立派な男子が生まれた!」と叫んだと言われています。

信秀には側室が生んだ男子(織田信広)がそれ以前にもいましたが(長男の扱いは受けず)、信長が初めての正妻が生んだ男子で嫡男でした。

一方、次男であったためか、同じ正妻が生んだにも関わらず弟の信勝(信行)が生まれた際の父の反応がどうであったのかは伝わっていません。

しかし、織田信勝には親の愛を受ける機会が兄の織田信長より多かった。

織田信長
織田信長

嫡男としての誕生が喜ばれた兄の織田信長でしたが、しかし信長は早くから親元を離され、那古野城で育ちました。

その一方で、弟の織田信勝(信行)は事情が異なりました。

織田信勝は父、織田信秀の当時の居城である勝幡城(しょばたじょう)で父母とともに育ったのです。

このことから、弟である信勝の方が兄である信長よりも幼少期に父母と接する時間を多く持てました。

そんな状況で、自分の方が兄より親の愛を注がれているんだぞ、と織田信勝が感じるのは自然なことでした。

そして、成長するにつれて、なぜ自分が織田家の家督を継ぐ嫡男ではなく、次男なのか。と考える時期が訪れます。

そんなときに、兄の織田信長が世間では『うつけ』(バカ者)と呼ばれている、という話が信勝の耳に入ってきます。

織田信勝が織田信長と戦った理由。なぜ反乱を起こしたのか?

理由
理由

じゃあダメな兄に代わって自分が織田家の家督を相続したい、そのほうがふさわしい、と織田信勝(信行)考えても不思議ではありませんでした。

つまり自分が織田家の後継ぎになりたかったこと、そして兄がうつけと呼ばれていてそのチャンスがあったことが、織田信勝が織田信長と戦った理由になります。

そして実際に、父、織田信秀の死後、織田信勝は家督を継いだ織田信長に反旗を翻します。

父の葬儀(1551年3月)から約5年後(1556年8月)、織田信勝と織田信長のふたりは血を分けた兄弟の戦いを始めました。

稲生の戦い。と呼ばれるものです。

人望、兵力ともに織田信勝が織田信長をリードしていました。

それは、以下のように戦力差となって現れていました。

織田信勝(信行):有力配下 柴田勝家。林秀貞。 兵力 1700

織田信長    :有力配下 なし。       兵力 700

織田信勝と織田信長の戦い

戦い
戦い

つまり、このときの織田信勝と織田信長の兵力差は2:1以上でした。

この数字を現代にたとえると、例えば近所の中学校の3年2組+3年3組の全生徒+3年4組の一部の生徒が3年1組とケンカをするようなものです。

ケンカの内容は、殴り合いでも、テストの合計点の競い合いでも構いません。

いずれにしても、人数の多い3クラス連合軍が人数の少ない3年1組に勝利します。それだけ数の力は絶大です。

このように数の暴力のおかげで普通なら織田信勝が織田信長に勝利するはずでした。

しかし、1700人対700人の戦いで織田信勝軍は敗北しました。

敗北者の織田信勝は母に助けられる。

敗北
敗北

現代の常識からすると、兄弟げんかに負けた程度で命を落とすことはありません。

しかし戦国時代においては一度『槍』を交えて戦をして敗北したのならば、それが自らの死に直結することもしばしばありました。

織田信勝の身にも死が迫ります。

織田信勝と織田信長は共通の母から生まれていたので、このとき織田信勝は母に自身の助命を嘆願してもらいます

信勝にとっては幸運でした。もし信勝が信長の異母弟であったなら、このとき落命していたかもしれません。(まあ、正室の子同士だからこそ兄弟喧嘩になったともいえますが)

それはさておき、結局、織田信長は実の母の嘆願を受け入れ、織田信勝を許します。

このとき信勝は21歳で、信長は23歳でした。

それでも家督を継ぐのは自分こそがふさわしい、と考えてしまった信勝の失敗。

失敗
失敗

織田信長に従わなかったのが織田信勝の生涯最大の失敗でした。

謝罪から1年3か月後の1557年11月、信勝は再び信長に謀反を企みます。

しかし今回はそれを家臣の柴田勝家が事前に織田信長に密告していました。

弟の企みを知った信長は、織田信勝が謀反を起こす前に仮病を使って自分の城へ見舞いに来るように命じます。

謀反の企みが露見していることを知らない織田信勝はあっさりと織田信長の指示に従います。

もし、織田信長の命令を織田信勝が断れば、それこそ本当に織田信勝の謀反を疑われるかもしれなかったからです。それは信勝にとって避けなければならないことでした。

また、信長の『病』が重ければ、信勝が望み通りに家督を継げるチャンスだったかもしれません。

織田信勝の最後。享年22歳。

22
22

しかし、信長の居城に入ると「もうネタは上がってるんだ。謀反を企んでいただろ。お前の家臣の柴田から報告があったぞ」とばかりに織田信勝は織田信長に誅殺されましまいました。無理やり切腹させられたと考えられています。

自業自得とはいえ、儚い一生でした。

信勝が信長のすぐ下の次男に生まれなければ、それこそ七男や八男に生まれていれば、信長と対立することなく、別の人生を送れたのかもしれません。

織田信長と織田信勝クイズに挑戦

織田信長と織田信勝クイズに挑戦に挑戦してみましょう。

クイズ

織田信長と織田信勝の関係は?
織田信長が一度だけ織田信勝を許した理由は?
織田信勝が織田信長と戦った理由は?
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参考文献。日本大百科全書。世界大百科事典。日本国語大辞典。国史大辞典。日本人名大辞典。日本大百科全書。他、図書館の多数の書籍。

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