【簡単に】浅野長政と石田三成の関係。不仲とされる二人の逸話やエピソード。

浅野長政 石田三成 浅野長政
浅野長政 石田三成
れふかん編集委員
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この記事では浅野長政石田三成の関係や出来事などについてまとめています。

浅野長政の検地漏れを石田三成が正す

近江 地図
近江 地図

1583年、豊臣秀吉の命令で浅野長政が近江の検地を行いました。

検地とは田畑を測量して石高を定めることです。この検地の結果から農民が払う年貢の量が導き出されます。

田畑
田畑

浅野長政が行った検地の結果は、やや石高が少なめでした。

浅野長政
浅野長政

これはずさんな検地作業だったため検地漏れが出たのか、それとも浅野長政が農民に優しさを見せて年貢を少し軽めにしたのか、二つの説があり長政の心情を確定するには至っていません。

しかしいずれにせよ浅野長政の検地の結果が【間違っていた】ということは明らかです。

それを突き止めて正したのが石田三成でした。

石田三成
石田三成

同年の末頃に、近江の蒲生郡(近江国の都と呼べる群)の農民18名が年貢を減免を求める事件が起きます。

この農民たちは要求が受け入れられなかった場合は農地を放棄して逃亡する姿勢を示していました。

武士方は農民の要求をすぐには受け入れず、まずは再検地を行う。話はそれからだと回答します。

その後、浅野長政が一度検地を行った蒲生郡の再検地が実施されます。この再検地を担当したのが石田三成でした。

石田三成は検地漏れしていた農地を次々と見つけ出し、きっちりと厳格に修正していきます。

この検地漏れに関しては浅野長政が罰せられることはありませんでしたが、石田三成に面子をつぶされたような形になってしまいました。

石田三成が徳川家康を悪く言いすぎるので浅野長政が弁護する

小田原城
小田原城

大坂・京都を本拠地とする豊臣秀吉が小田原征伐に向かう際、道中で徳川家康の領地の東海地方を通らなければなりません。

石田三成はこの時、徳川家康が豊臣秀吉を裏切って小田原の北条氏康の味方をするかもしれないと警戒していました。

ただ、警戒しすぎて根拠のない家康の悪口まで秀吉に告げてしまいまいます。

たとえば沼津城に向かって河を渡って進軍する際、橋がなかったので橋の代わりに家康の部下の伊奈忠次が小舟を並べてつなげるのですが、三成はこれを渡らせません。

あの船の橋は安全ではない。秀吉が橋を渡っている途中に徳川家康の差し金できっと秀吉は暗殺されてしまうと危険性を伝えます。

浅野長政は橋が安全であることを証明するために自らの手勢を率いて橋を渡りました。その後秀吉も安全に渡河し終えます。

橋が安全だと考えた浅野長政と、橋が危険だと考えた石田三成の間にはこのように意見の相違が生じていました。

浅野長政と石田三成は二人とも五奉行に数えられ、その職務も似ていたのですが、互いの性格は合わず相性は悪い関係にありました。

また、同じく小田原征伐の道中において、豊臣秀吉が徳川家康の駿府城に宿泊するべきかどうかという問題でも浅野長政と石田三成は対立しています。

徳川家康
徳川家康

ここでも同じように石田三成が危険だと主張して、浅野長政は安全だと主張しました。

結局秀吉は駿府城に宿泊することを決め、家康から手厚いもてなしを受けました。

朝鮮出兵に乗り気な石田三成と反対派の浅野長政

豊臣秀吉
豊臣秀吉

朝鮮出兵の際には豊臣秀吉が「わし自ら渡海して朝鮮を征服しよう」と言い出します。

するとこれに対して石田三成は「すぐに船を手配しましょう」と賛成しますが浅野長政は反対します。

浅野長政が秀吉に対して「殿下は古狐にでも取り付かれたのですか、このまま無益な戦いを続けていては朝鮮も日本も国土が荒廃するだけです。朝鮮からただちに全軍を引き上げるべきです」と告げると秀吉は激怒して、浅野長政は少しの間謹慎させられます。

このとき浅野家が改易されてその家紋が豊臣家の家臣団から消える可能性もありましたが、前田利家と徳川家康の説得によって、秀吉は長政を赦します。

結局、秀吉は朝鮮出兵を部下に任せて自らが朝鮮に渡ることはありませんでした。

とはいえ、石田三成と浅野長政の対立は朝鮮の地でもまだ続きます。

石田三成浅野長政に用があり、浅野長政の陣所を訪ねますが、浅野長政は黒田如水との囲碁に夢中だったため、石田三成を待たせます。

囲碁
囲碁

しかし囲碁の対局に夢中になりすぎた長政は三成のことをすっかり忘れて待たせすぎます。

怒った石田三成は帰ってしまい、浅野長政が遊びに夢中になって本来の仕事をおろそかにしていると秀吉に報告しました。

この出来事は石田三成と浅野長政の関係を悪化させたといわれています。

関ケ原の戦いでは石田三成と敵対。浅野長政の息子の武士道

関ケ原の戦いでは浅野長政は徳川秀忠に従い、中山道を通って関ケ原方面に向かって進軍します。

しかし上田城の真田昌幸・幸村父子の足止めにあって関ケ原の決戦には間に合いませんでした。

一方で浅野長政の息子の浅野幸長は徳川軍の先鋒を務め、岐阜城攻めにおいて500人以上を討ち取るという戦功を挙げました。

岐阜城
岐阜城

この戦功について幸長は戦後に徳川家康から感状を渡されています。

この浅野幸長ですが、戦後、関ケ原の戦いで敗れた石田三成に対して東軍の誰もが冷淡な態度をとった中で、唯一礼を払った態度で接しました。

そして処刑が迫っている石田三成に対して「そなたは我が敵だが同じ豊臣家の家臣である。諸将が戦いに敗れたそなたに無礼な態度をとるのを見るのは忍びない」

豊臣家 家紋
豊臣家 家紋

と言って、自身の着ていた短襖(短い上着)を三成に着せてやりました。

その後石田三成が処刑されたことにより、浅野長政(浅野家)と石田三成の関係は終焉を迎えました。

浅野長政と石田三成の関係クイズに挑戦

。浅野長政と石田三成の関係クイズに挑戦してみましょう。

クイズ

石田三成は浅野長政の何の誤りを正した?
浅野長政は石田三成と何の意見で対立した?
浅野長政と石田三成が共に務めた役職は?
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参考文献。日本大百科全書。世界大百科事典。日本国語大辞典。国史大辞典。日本人名大辞典。日本大百科全書。他、図書館の多数の書籍。

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