最後にクイズもあります。
河田小龍は幕末の偉人であり、土佐藩随一の知識人として有名です。
この人は主に【吉田東洋】や【ジョン万次郎(中浜万次郎)】や【坂本龍馬】との関わりで注目されます。
そうした事項は以下の記事に譲ります。
この記事では河田小龍とその父親について注目していきましょう。
河田小龍と父の関係。
河田小龍の父の名前は『土生玉助維恒』で『河田』姓ではありませんでした。
この人物は御船頭小姓組二十五石十人扶持の土佐藩士でした。
河田小龍は貧しい家庭で育つ。
この河田小龍の父の収入をわかりやすく説明すると、
一石=玄米150Kgなので、二十五石とは玄米3750Kgになります。
そして、一人扶持は一日あたり玄米五合、年間で一石七斗七升(265.5Kg)が支給されます。
つまり、河田小龍の父は合計で年間約二十六石(約4000Kg)の兵糧収入があったことになります。
現代とは物価が異なるので正確な比較をすることはできませんが、それでも遊び心で父の年収を計算すると以下のようになります。
現代のスーパーマーケットで販売されている米10Kgの値段を4000円とする。
すると、スーパーの米4000Kgの総額は160万円になる。
年収160万円はちょっと少ないです。河田小龍たちが育った家庭は親子共に楽ではありませんでした。
河田小龍父子と他の侍たちとの身分差。
こうしたことからもわかるように河田小龍の父は武士の中では身分が低い『下士』でした。
土佐藩では江戸時代初期以来、長宗我部家(関ケ原の合戦以前の土佐の支配者)の元家臣の血筋の武士の身分は低いものでした。(下士)
一方で、初代藩主・山内一豊(関ケ原の合戦後の土佐の支配者)が外から連れてきた普代家臣の身分は高いものでした。(上士)
土佐藩における下士と上士の身分差は歴然としていて、下士が上士の身分に昇格する方法はほとんど用意されていませんでした。
河田小龍は自分の出身を嫌う。
河田小龍はそんな土佐藩の硬直した身分制度を嫌い、長男であるにも関わらず『土生』家の家督は弟に譲ります。
そして自身は地侍になり、祖父の名字だった『川田』姓を名乗ります。
彼はこの『川田』をのちに『河田』に改名して『河田小龍』となります。
下士である父の仕事と吉田東洋。
吉田東洋が当時『御船奉行』をしており『御船頭小姓組』だった河田小龍の父の直接の上司だったといわれています。つまり河田小龍は幼少期に父の上司から可愛がられていました。
・河田小龍の父は貧しい下級武士だった。
・土佐藩において下級武士から上級武士に出世する方法はほとんどなかった。
・河田小龍は家督を継がず弟に譲った。
・父は一時期有名な吉田東洋の部下だった。
参考文献。日本人名大辞典。他。
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