途中で【腕試しクイズ】と【沢村惣之丞クイズ】の2種類のクイズを用意しています。どうぞ最後までお楽しみください。
沢村惣之丞の土佐時代。
沢村惣之丞(さわむら そうのじょう)はわずか26歳という若さで他界した土佐国出身の幕末志士です。
沢村惣之丞は1843年(天保14年)に土佐国土佐郡潮江村(現高知県高知市潮江)に生まれました。
父は侍でしたが、仕官先のないしがない浪人でした。
19歳で脱藩するまでの間、沢村惣之丞は土佐藩士の間崎哲馬に師事して学問を学びます。
この師匠の間崎哲馬という人物は土佐藩内において勤王運動を計画して切腹させられたほどの人物でした。
若年の沢村惣之丞は間崎哲馬も所属していた土佐勤王党に加入します。
そして1862年(19歳)になると、沢村惣之丞は吉村寅太郎(土佐藩の庄屋出身の志士)と共に土佐藩を脱藩します。
沢村惣之丞と坂本龍馬。
その後、吉村寅太郎とは別れて長州藩の動向を探りに長州(≒山口県)まで赴きます
そしてそこで得た長州藩の情勢を武市半平太(土佐勤王党の創設者)に報告をするために密かに土佐に帰ります。
報告任務が完了すると、沢村惣之丞は今度は坂本龍馬とともに再び脱藩します。3月下旬のことでした。
なお、このときが沢村惣之丞の最後の帰郷となります。
沢村惣之丞は長州で坂本龍馬と別れ、自身は京都に向かいました。
京都に潜伏中は公家(右近衛権少将公述)に仕えました。
そしてその約2か月後、五月頃に沢村惣之丞は坂本龍馬の誘いで勝海舟の門下生になります。
坂本龍馬の勧めで幕臣勝海舟の門下生になっていた者は他に、近藤長次郎・高松太郎・千屋虎之助・望月亀弥太・新宮馬之助・安岡金馬・広井盤之助などがいました。
いずれも沢村惣之丞の同郷の土佐出身者たちでした。
以上のメンバーたちとともに沢村惣之丞は海援隊の前身となる亀山社中及び海援隊の中核人物として活躍しました。
海援隊とは坂本龍馬が隊士長を務める組織で、貿易会社兼海軍技術習得所の役割を果たしていました。
沢村惣之丞は語学(英語)に堪能だったこともあり、海援隊では有能な同志として坂本龍馬をよく補佐して活躍します。
慶応三年に書かれた『海援隊士姓名』という書物にも【沢村惣之丞は英法に通ずるを以て外人応接に任じー】と記されています。
沢村惣之丞が海援隊で務めた【外人応接掛】の職務は非常に重要なものでしたが、上手くこなしました。
また、沢村惣之丞は海援隊において坂本龍馬を外人応接掛として補佐しただけではなく【測量官】としての業務も遂行していました。
その後1867年の12月、坂本龍馬が京都で何者かに暗殺されると、大坂の薩摩屋にいた沢村惣之丞は海援隊の仲間たちと京都に駆け付けます。
そして同年、沢村惣之丞(24歳)は坂本龍馬の敵討ちをしようと考えます。
しかし犯人がわかりません。
そこで暗殺犯の目星を紀州藩につけます。紀州藩には海援隊のいろは丸という船に紀州藩の船を衝突させて沈没させしまった過去がありました。
この事件の際に海援隊は土佐藩の協力も得て紀州藩に賠償金を支払わせました。
紀州藩はそのことを恨んで海援隊のリーダーである坂本龍馬を殺したのだと沢村惣之丞たちは考えました。
そして容疑者の紀州藩士・三浦休太郎の暗殺計画を実行します。天満屋で酒宴を開いていた三浦休太郎を海援隊士たちで襲撃しました。
しかし紀州藩側はこの動きを察知していて事前に三浦休太郎に新撰組の警護を付けていました。
海援隊士側は三浦休太郎の頬に傷をつけ、新撰組も負傷させることに成功しましたが目的を果たせませんでした。
沢村惣之丞たち海援隊士は紀州藩士と新撰組の増援が駆けつける前に速やかに撤退します。
この襲撃事件では負傷者の他双方に数名の死者が出ました。
その後沢村惣之丞は長崎に向かいます。
なお、坂本龍馬の暗殺犯は現代でも様々な説があり不明です。
沢村惣之丞の長崎時代と切腹。
翌年、維新の混乱の影響を受けて長崎奉行所が無人になると、沢村惣之丞は海援隊の仲間と共に長崎の町の警備に務めます。
さらに翌年の1868年に事件が発生します。長崎の町の長崎奉行所から1月14日に役人が退去したのです。
原因は、1月14日に長崎の情勢が変わる前の1月3日~6日にかけて起こった京都の鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北を喫したことにありました。
その知らせを1月14日に長崎奉行の河津伊豆守は受け取ります。すると河津伊豆守は長崎奉行所を「【西役所】から【立山役所】に移転する」
と通達します。これは逃走するために設けられた口実でした。
長崎奉行の河津伊豆守はロシア船籍のアトリン号に乗船するとそのまま長崎を退去してしまいます。
同日夜に、このようなめまぐるしい情勢を察知した佐々木高行(土佐藩士)は迅速に長崎の海援隊士を率いて長崎奉行所を占拠・接収します。
この長崎奉行所の占拠・接収に参加していた沢村惣之丞は泥酔した暴漢を射殺します。
しかし後に、射殺したのは当時友好関係にあった薩摩藩士の川端平助だったことが判明します。
誤殺とはいえ海援隊と薩摩藩との軋轢が生まれることを沢村惣之丞を憂慮します。
そしてそうしたことを未然に防ぐために、沢村惣之丞は薩摩藩関係者の制止があったにもかかわらず長崎の海援隊本部で切腹して他界します。
立合いと介錯は海援隊士の吉井源馬らが務めました。
沢村惣之丞の享年は二十六歳でした。
その後、このことが原因で薩摩藩と海援隊の間で軋轢が生まれるようなことはありませんでした。
また、沢村惣之丞は切腹前に辞世の句を残しています。
【生きて世に 残るとしても 生きる世の あらん限りの 齢なるらめ】
沢村惣之丞の墓の所在地。
沢村惣之丞の墓は本蓮寺(長崎県筑後町2-10)の敷地内にあります。
本蓮寺へのアクセスは長崎駅前から徒歩5分です。
駐車場は7台分まで設置されています。
本蓮寺に沢村惣之丞が眠ってます。
坂本龍馬と同時代を生き抜いた海援隊士の生涯でした。
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