途中で【腕試しクイズ】と【高松太郎クイズ】の2種類のクイズを用意しています。どうぞ最後までお楽しみください。
高松太郎とは?(坂本直とは?)
高松太郎とは幕末に活躍した海援隊士で、坂本龍馬の甥です。
坂本直と呼ばれることもありますが、この名前は坂本龍馬の死後に【坂本家】を継いで改名したものです。
また、高松太郎(坂本直)は海援隊時代には小野惇輔という名前も名乗っていました。
(以後この記事では必要時以外の呼称を高松太郎に統一します)
高松太郎と坂本龍馬の関係。
高松太郎と坂本龍馬は甥・叔父の関係に当たります。
高松太郎の母の千鶴が坂本龍馬の実姉でした。
母、千鶴は長姉であったため坂本龍馬より19歳年上でした。
そのため千鶴の長男である高松太郎と叔父の坂本龍馬の年の差はわずか6歳差でした。
坂本龍馬が1836年生まれで高松太郎が1842年生まれでした。
高松太郎は立派な幕末志士だった。
高松太郎は幼少期から侍の子供として剣術の稽古に励んできました。
高松太郎の師匠は高知城下の日根野弁治という剣術の達人でした。
日根野弁治の日根野家は土佐藩で剣術師匠役を務めている高級武家でした。
叔父の坂本龍馬も若い頃は日根野家の道場で修行に励んでいました。
高松太郎は成長すると18歳の時に剣術修行の旅に出ます。
叔父の坂本龍馬は17歳の頃剣術修行に江戸に向かいましたが、高松太郎は剣術修行の目的地として九州を選びます。
九州で武者修行の旅の途中、高松太郎は同じく九州を遊歴していた土佐藩士の武市半平太や岡田以蔵の一行に出会います。
九州で出会ったこの武市半平太は土佐勤王党(尊王攘夷思想の組織)のリーダーでした。
高松太郎は武市半平太に感化され、帰国後に坂本龍馬も参加していた土佐勤王党に入ります。
土佐藩主の御供で高松太郎は京都へ。
20歳の頃に高松太郎は土佐藩主・山内豊範の上京に従って京都へ赴きます。
そこで在京の多くの尊王攘夷派の幕末志士たちと交流を持ちます。
さらには坂本龍馬に誘われて勝海舟の門下に入ります。
勝海舟の神戸海軍操練所では航海術を学びました。
勝海舟が失脚し神戸海軍操練所が閉鎖されると、高松太郎は坂本龍馬の紹介で薩摩藩大坂屋敷の庇護を受けることになります。
京都・神戸(兵庫)・大坂から薩摩・長崎へ。
その後薩摩(鹿児島)に移った高松太郎は薩摩藩海軍の訓練を任されるようになりました。
さらに長崎に移り、長崎で結成された亀山社中とその後継組織である海援隊に加わります。
海援隊士として高松太郎は亀山社中と海援隊のリーダーである叔父の坂本龍馬をよく補佐しました。
高松太郎は太極丸という船に乗船していました。また、長州藩の小銃購入の周旋などでも活躍しました。
叔父・坂本龍馬の暗殺。
1867年、坂本龍馬が京都の近江屋で暗殺されたとき、高松太郎は大坂の薩摩屋にいました。
高松太郎は翌日、千屋寅之助・長岡謙吉・坂本直・沢村惣之丞・安岡金馬・野村辰太郎・八木彦三郎たち海援隊の仲間とともに京都に駆け付けます。
そこで遺体と対面し叔父・坂本龍馬の死亡を確認しました。
高松太郎は坂本龍馬のことを伯父の坂本権平(坂本龍馬の兄)に
「天下のために死をいたし候」と手紙で伝えました。
明治時代の高松太郎は北海道(蝦夷地)へ。
1868年、明治時代になると4月に新政府による蝦夷地(北海道)の函館裁判所の設置が決まり高松太郎はそこで勤務することになります。
また、7月に函館港に外国籍と思われる不審船が来航した際は、以後そのようなことが起きぬように高松太郎が各国領事に通達を送りました。
10月に旧幕府艦隊が向かっていると知ると高松太郎は上司たちとともに青森に避難しました。
そして一度仕事で東京まで戻ります。
しかし翌年の五月になると新政府軍の一員として北海道の江差へ出撃し、戦功をあげます。
このとき高松太郎は松前藩から褒美として【金1千両と刀を1口】与えられました。
その後旧幕府軍に占領されていた函館の五稜郭は旧幕府軍が降伏したため開城されます。
しばらく函館に留まったあと、高松太郎は東京へ移動しました。
その後明治4年に暗殺された叔父の坂本龍馬の坂本家の後を継いで、高松太郎は名前を坂本直に改めます。
これは明治政府が暗殺された坂本龍馬(坂本家)を哀れみ、高松太郎に坂本家を継がせたものだとされており、その証拠にこのときに明治政府は坂本直に賞典禄として永世十五人口を下賜しています。
東京では宮内省などで勤務したのち、坂本直は故郷の土佐(高知)に戻りました。
この頃の坂本直はキリスト教徒になっていたという説があります。また、坂本龍馬の妻のお龍によると坂本直は以下のような言葉を語っていました。
北海道で金1千両分の戦功を建てた男ですが、坂本直は出世欲は薄く宮仕えを好まない性格だったようです。
宮仕えを好まないという点では坂本直は叔父の坂本龍馬とよく似ていました。
坂本龍馬も大政奉還が成立したらどうするかという西郷隆盛との会話の中で、自分は新政府には出仕せず
「世界の海援隊でもやるかな」
と言い残しています。(実際には大政奉還の前に亡くなりました)
坂本直は明治21年、土佐で没します。57歳の誕生日から6日後のことでした。
坂本直(高松太郎)の生涯は若い頃に憧れた坂本龍馬よりも26年長いものでした。
参考文献。日本人名大辞典。他。
「戦争が済めば山中に入って安楽に暮らすつもり。役人になるのは俺は嫌じゃ」