【敗将】和田惟政とは? 足利義昭を助けた和田惟政の生涯

和田惟政 荒木村重
和田惟政
れふかん編集委員
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途中で【腕試しクイズ】も用意しています。

今回は、中川清秀が討ち取った武将である和田惟政(わだこれまさ)についての記事になります。

和田惟政とは

和田惟政とは足利将軍家の幕臣であり、織田信長にも仕えた戦国武将です。

ジャンヌ・ダルク
ジャンヌ・ダルク

上司が二人もいるタイプの戦国武将ね、どちらの主人に先に仕えたのかしら?

和田惟政はまず先に足利家に仕え、次いで織田家に仕官しました。

将軍家と織田家の橋渡し役として、

また、織田信長が摂津方面ににらみを利かせるための武将として存在感を示していました。

しかし当時織田信長に敵対していた荒木村重及び中川清秀と戦って戦死を遂げました。

和田惟政の出身

近江 地図
近江 地図

出身は近江国の甲賀の和田村で、この地域の有力な豪族でした。

和田惟政の【和田】を冠した和田村を支配した惟政の家柄は、甲賀五十三家のうちの上位二十一家に数えられています。

甲賀五十三家はのちの甲賀流忍術の源流として有名なことから、忍者の家系と呼ぶこともできますが、和田惟政が忍者のような活躍をしたという記録は残されていません。

和田家は近江の六角氏に仕官していた家柄でした。当時の六角家の君主は六角定頼で、第十三代将軍足利義輝の烏帽子親でもありました。

このことから、1549年の6月28日、三好三人衆に京都を追われた足利義輝は近江の六角家を頼り身を寄せます。

和田惟政の父の和田惟助は、窮状に陥っていた足利義輝を助け、和田家は将軍家に仕官するようになります。

和田家が六角家から足利将軍家に主君を乗り換えた際のトラブルが記録されていないことから、六角定頼の了承があった可能性や、和田家が六角家と足利家に両属した可能性が指摘されています。

いずれにせよ、この時から和田惟政は足利義輝の奉公衆として働くことになりました。

足利義輝は13歳、和田惟政は19歳でした。

和田惟政と足利義輝

足利義輝
足利義輝

和田惟政は主君の足利義輝より6歳年長でした。

主君の足利義輝はわずか11歳で足利第13代将軍に就任した人物で、多くの苦労を経験してきました。

主君が苦労するということはすなわち、その家臣も多くの苦労を経験するということです。

たとえば北白川の戦いでは三好軍に攻められ義輝の奉公衆が70人も討死しました。

この戦いに和田惟政が参戦していたのかは残念ながら記録に残っていませんが、いつも寡兵で戦場で辛い目に遭うことの多い幕臣でありながら、和田惟政は数々の戦いをくぐり抜けて生き残り続けました。

しかし主君の足利義輝は1565年の6月17日に三好三人衆の襲撃を受け、命をを落とします。享年29歳でした。

その最後は激烈で、義輝は自ら刀を握り剣豪将軍の名に恥じない戦いぶりを見せた他、幕臣たちも全力を尽くし一人残らず討ち死にしたと伝えられています。

さて、そんな主君の危機に和田惟政は何をしていたかというと、以前に足利義輝を怒らせたことが原因で自邸で謹慎を命じられていました。

前述の事件で足利家の幕臣が一気に減少した中で、難を逃れた和田惟政は数少ない幕臣として足利家のために働きます。

和田惟政と足利義昭

足利義昭
足利義昭

第15代将軍となる足利義昭は当時、覚慶(かくけい)という名で、奈良の興福寺に幽閉されていました。

そこで和田惟政は仲間【細川藤孝・一色藤長・三淵藤英・米田求政・仁木義政】らと覚慶の救出計画を立てます。

結果、無事に覚慶の救出は成功します。

そして覚慶は足利義秋(→義昭)に改名し、兄の後を継いで足利第十五代将軍となる意思を固めます。

救出された後、しばらくの間、足利義昭は近江に滞在していましたが、滞在先は和田惟政の屋敷でした(和田城とも言われる)

ところが和田惟政の外出中に足利義昭は居場所を移ったため、帰宅した和田惟政は怒りました。

この怒りを鎮めるために足利義昭は和田惟政に謝罪の手紙を送っています。

和田惟政と摂津

織田信長
織田信長

和田惟政は第十五代将軍足利義昭に摂津の三守護の一人として任命され、織田信長に芥川山城を与えられました。

摂津三守護の他の二氏(池田氏・伊丹氏)とは異なり、和田惟政は摂津の出身ではなく、

先祖代々の基盤を摂津に持っていませんでした。とはいえ、しばらくは摂津を上手く収め、足利家の家臣として、また、この頃から織田家の家臣としても活躍しました。

ところが織田信長と足利義昭の関係が悪化すると、信長との引見を拒否されたり、その後許されて信長から金銭を授かったりと二人の主君の関係に翻弄されました。

それでもうまく立ち回り、自らの摂津三守護としての地位を上手く堅持していました。

また、織田信長の指示に従い石山本願寺との戦闘なども行いました。

しかし、同じく摂津三守護の一つの池田家が織田家に反旗を翻したことで和田惟政の運命が変わります。。

池田家が織田家に敵対したのは、当主の池田知正が三好氏と親しくしていたからと言われていますが、池田軍が矛先を向けたのは同じく摂津三守護の和田惟政でした。

池田家の有力な家臣の荒木村重と中川清秀が和田惟政を攻撃しました。

和田惟政の最後。中川清秀との激闘

白井河原の戦いにおいて、和田惟政の軍は500騎で荒木村重中川清秀の2500騎の軍と対峙します。

和田惟政の兵の少なさには、息子の和田惟長や有力家臣の高山友照の増援を待っていたという説もありますが、増援は間に合わず、この戦力差のまま開戦します。

和田惟政は奮戦し、数多くの敵を葬ったと伝えられています。

この戦いでは大将である和田惟政自らが槍を振り多くの敵兵を倒します。

しかし和田惟政はやがて数多くの銃創や刀傷を浴びて満身創痍となります。

しかしそれでも戦い続けましたが、和田惟政は敵の副将中川清秀に討ち取られて最後を迎えます。

なお、余談になりますが、この戦い(白井河原の戦い)には斎藤道三の息子の長井道利も参加していました。

斎藤家が織田信長に滅ぼされたあと、長井道利は足利家に仕えて、足利幕臣の和田惟政の救援に来ていました。しかしこの戦いに敗れて斎藤道三の息子も討死しました。

荒木・中川軍はそのまま高槻城を攻めます。

和田惟政の戦死後、織田信長は停戦の使者(佐久間信盛)を派遣しますが、うまくいかず、明智光秀を千人の軍とともに派遣してようやく停戦の交渉を成功させます。

なお、和田惟政の息子の和田惟長は高槻城に逃げ帰ったのですが、のちに高山父子(高山友照と高山右近)によって追放されます。

こうして和田家は戦乱の時代の中で摂津の地において敗者となりました。

和田惟政の生涯クイズに挑戦

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クイズ

和田惟政の出身地は?
和田惟政が仕えたのは?
和田惟政が自宅に住まわせた相手と、和田惟政を討ち取った相手の組み合わせとして正しいものは?
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参考文献。日本大百科全書。世界大百科事典。日本国語大辞典。国史大辞典。日本人名大辞典。日本大百科全書。他、図書館の多数の書籍。

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