西暦 | 出来事 | 年齢(数え年) |
1535年 | 荒木村重が摂津で誕生する。 | 1歳 |
1569年 | 活躍を開始する。主君は池田勝正。 主君の命令により、足利義昭を助けるために三好軍と戦い勝利する。 | 35歳 |
1570年 | 池田勝正の弟の池田知正と協力して、主君の池田勝正を追放する。 池田知正が新しい主君となる。 池田家の方針は変わり、三好軍と手を組み、織田軍と敵対する。 | 36歳 |
1571年 | 足利家家臣で、織田家家臣でもあり、摂津の三守護の一人でもある和田惟政と戦う。和田惟政を討ち取り勝利する。(白井河原の戦い) この戦いで敵方だった、斎藤道三の息子(長井道利)も討死させた。 | 37歳 |
~? | 主君の池田知正を追放する。下克上を成し遂げた。 池田家の領地は荒木村重が支配して、池田家の家臣団も荒木村重がまとめあげた。 | 37~39歳前後 |
1573年 | 三好氏と手を切り、織田信長に仕える。 | 39歳 |
1575年 | 織田信長の命令で越前の一向一揆を攻める。 | 41歳 |
1576年 | 本願寺を包囲する三つの砦を築く。 また、圧倒的に不利な状況にもかかわらず本願寺を攻めろという織田信長の命令を拒否する。 毛利水軍に荒木村重の水軍を含む織田水軍が惨敗する。これに織田信長が激怒する。 | 42歳 |
1577年 | 織田信長の命令で紀伊の雑賀の一向一揆を攻める。 羽柴秀吉の推薦により、中国征伐の副将に選ばれる | 43歳 |
1578年 | 正月には織田信長の茶会に出席するという栄誉を手にする。 この年の時点で絶世の美女とされるだしを含む4人の妻がいた。 この年の末頃に織田信長に対して謀反を起こす。 有岡城に籠城する。 | 44歳 |
1579年 | 毛利軍の援軍が来ないため有岡城から脱出して尼崎城に移る。 有岡城が落城する。妻子が人質とされる。 信長の使者として荒木久衛門が来るが無視。 尼崎城から花熊城に移る。 家臣や妻子たち600名以上が織田信長によって処刑される。 | 45歳 |
1580年 | 花熊城も落城する。 荒木村重は毛利氏にかくまわれる。 | 46歳 |
1582年以降 | 本能寺の変で織田信長が世を去る。 豊富秀吉の天下が訪れると、荒木村重は大坂の堺で茶人としての活動を始める。 千利休の7人の立派な弟子の【利休七哲】に数えられる。 豊富秀吉の悪口を言う。 本願寺に保護されて生き残っていた、絵師となっていた息子と会見する。 出家して荒木道糞を名乗る。 | 48歳以降 |
1586年 | 大坂の堺で死去。享年52歳。 | 52歳 |
荒木村重とは?
荒木村重は1535年に摂津で生まれる。(1歳)
最初は摂津の池田家に仕える。村重は池田二十一人衆の一人に数えられた。
荒木村重はおそらくは10代後半~遅くとも26歳までに結婚する。相手は池田長正の娘。
27歳のときに嫡男の荒木村次が生まれる。
荒木村重の主だった活躍は1569年、35歳の頃から始まる。
池田勝正に仕えた時代の荒木村重
1569年、主君の池田勝正の命令で足利義昭を助け三好氏と交戦する。(35歳)
三好軍は敗退してやがて四国に撤退する。
翌1570年には池田家の一族争いにかかわり、荒木村重は当主の池田勝正を弟の池田知正が追放することに協力する。(36歳)
この追放劇により主家・池田家の方針が変わる。
荒木村重は新しい主君となった池田知正のもとで、三好氏と協力して織田家に対抗する。
池田知正に仕えた時代の和田惟政との戦い
1571年には和田惟政【織田家と足利家に仕えていた武将】と戦う。(37歳)
和田惟政は摂津三守護の一角でもあった。(三守護は、池田氏・伊丹氏・和田氏)
この戦いの大将は荒木村重、副将は中川清秀。敵の大将は和田惟政、副将は茨木重朝。
副将の中川清秀が和田惟政の首を討ち取り、荒木村重は敵である和田惟政の副将の茨木重朝を自ら討ち取りこの戦いに勝利する。
余談になるが、この戦い(白井河原の戦い)に斎藤道三の息子の長井道利も参加していた。
斎藤家が織田信長に滅ぼされたあと、長井道利は足利家に仕えて、足利幕臣の和田惟政の救援に来ていた模様。しかしこの戦いに敗れて討死する。
荒木・中川軍の兵力は3千、和田・茨木の兵力は五百だったとされている。(37歳)〈再〉
池田知正に対する荒木村重の下克上
正確な時期は不明ながら、この戦いが終わった後から1573年前後にかけて、荒木村重は主君の池田知正を追放する。
摂津の池田家の領地は荒木村重のものとなり下克上を成し遂げる。(37歳~39歳前後頃)
織田信長に仕えた時代の荒木村重
1573年、荒木村重は織田信長の配下となる。(39歳)
自身に忠節を誓った荒木村重に織田信長は大喜びする。
信長は村重に太刀を与えた。
同年末、摂津三守護の最後の一人、伊丹城主の伊丹親興を攻め滅ぼす(39歳)〈再〉
1575年、織田信長の命令で越前の一向一揆を攻める。(41歳)
1576年、織田信長の命令で本願寺を攻める。4月には本願寺を包囲する3つの砦を築く。(42歳)
5月には信長に先陣として本願寺を攻撃する命令を受ける。この時、敵(本願寺)の兵力は約1万五千、対する信長軍はわずか3千名ほど。荒木村重は自分は砦を守ると言って命令を拒否する。
このことは問題にならず、後日、織田信長は村重にあのとき攻撃をさせなくて良かったと伝えたという。
本願寺を包囲する荒木軍は、砦の他に軍船も用いて海上(大阪湾)からも本願寺を取り囲む。
7月、本願寺の救援(兵糧を届ける)に来た毛利軍の村上水軍に織田軍は敗北。
荒木村重の軍も惨敗、村上水軍に散々に追い回され、軍船を焼かれて敗退したという。
荒木村重をはじめ、敗れた織田軍の諸将に織田信長は激怒したという。(42歳)〈再〉
1577年、信長の命令で紀伊の雑賀の一向一揆を攻める。(43歳)
同年の末には荒木村重が中国征伐の副将格(大将は羽柴秀吉)に選ばれる。
荒木村重の生涯における全盛期
1578年、正月に織田信長は主だった家臣たち十一名を茶会に招く。荒木村重も招かれる(44歳)
信長の茶会に招かれるということは織田家家臣にとって大変栄誉なことであった。
30代半ばまでは摂津の池田二十一人衆の一人にすぎなかった荒木村重だったが、44歳の歳には天下の織田軍のトップ11人まで昇り詰めていた。(30代までは東証一部上場企業の地方勤務だったが、40代で本社の役員に出世したことに相当するかもしれない)
この頃の荒木村重はだし(当時二十一歳:今楊貴=現代の楊貴妃=といわれるほどの美人)を含む少なくとも4人の妻がいた。
領地と妻を失った晩年を考えるとこの頃が荒木村重の人生の全盛期とされる。
同年2月、織田信長は本願寺と講和して毛利軍との戦いに戦力を集中させたいと考える。
本願寺の使者へは荒木村重が選ばれる。村重を信長に推薦したのは羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)だった。
しかし村重の停戦交渉は失敗。村重は逆に本願寺に荒木殿の力で本願寺に兵糧を運び入れてはもらえないかと依頼される。
同年十月、荒木村重は織田信長に対して謀反を起こす。(44歳)〈再〉
織田信長に謀反を起こした後の荒木村重
1579年、有岡城内の食糧も乏しくなり、助けに来るはずの毛利軍の援軍も来ない。(45歳)
危機感を抱いた荒木村重は尼崎城を脱出して、息子の荒木村次の尼崎城へと移動する。
この時、村重はお気に入りの茶道具(葉茶壷)と鼓も持っていく。
しかし妻子や家臣は有岡城に残していった。やがて毛利の援軍を連れて有岡城に帰るつもりだったともいわれる。
しかし同年末、有岡城は落城。家臣や妻子、女房たちが人質とされる。
この状況下で有岡城にいた家臣は織田信長に命令される。「荒木村重を降伏させて来い、さもなくば妻子たちは処刑する。降伏すれば妻子たちの命は助ける」と。
尼崎城にこもる荒木村重への使者に選ばれたのは荒木久衛門を筆頭とする家臣団だった。
荒木久衛門
別名、池田知正。(荒木村重の元主君)
荒木村重に追放された池田知正は、織田信長の命令で摂津に戻り荒木久衛門と名を変えて荒木村重の正式な家臣となっていた【下克上】。荒木村重が織田信長を裏切った後も荒木久衛門は荒木村重に従っていた。信長の命令によって荒木久衛門は人質の妻子の命を助ける代わりに降伏するようにと、尼崎城にこもる荒木村重のもとへ説得に向かうことになる。
しかし荒木久衛門たちは正式な使者として尼崎城に向かったにもかかわらず城に入れてもらうことすらできなかった。つまり話を聞いてもらえなかった。
交渉の失敗を信長に伝えると、怒った織田信長によって自身の身に危険が及ぶ可能性も考え、荒木久衛門たち使者に選ばれた家臣団は逃亡する。
この間、荒木村重は絶世の美女とされた21歳の妻のだしとも和歌のやり取りをするが、彼女を助けるための行動は起こさなかった。ただし、自身の保身を図り尼崎城からさらに花熊城へと移動する。
同年12月、だしを含む荒木家の妻子、女房衆、家臣の男女の約600名以上が織田信長によって処刑される。
45歳の年は荒木村重にとって最悪の一年となった。(45歳)〈再〉
荒木村重の晩年
1580年、花熊城も落城する。荒木村重は西へと逃げて毛利氏に身柄を保護される。(46歳)
1582年、本能寺の変で宿敵の織田信長が世を去る。(48歳)
織田信長はいなくなったが、しかし荒木村重は武将には復帰しない。妻子や家臣たちを失い、辛い過去から無気力になり戦場には戻れなかったとの説もあるが、茶道には勤しんでいた模様。大坂の堺で暮らす。
やがて豊臣秀吉の世が訪れると、秀吉から許されて姿を隠す必要がなくなる。
振り返れば、荒木村重は武将時代には秀吉とのかかわりがそれなりにあったことがわかる。(本願寺への使者へ推薦されたり、中国征伐で大将と副将の関係だったりした)
この頃、荒木村重は大坂で茶人としての活動を始める。
茶の道を深く理解していた荒木村重は、千利休の七人の立派な弟子【利休七哲】に数えられる。
正確な時期は不明ながら、この頃の荒木村重の三つの逸話が残されている。
逸話
・荒木村重が秀吉の悪口を言ったところを、秀吉の正室の北政所に聞かれてしまう。
・秀吉が家臣の高山右近を褒める。しかし高山右近は自分を裏切った元家臣なので荒木村重は彼の悪口を言ってしまう。これにより秀吉の怒りを買ってしまう。
・荒木家の一族は信長にことごとく処刑されたが、当時二歳だった息子(岩佐又兵衛)だけは本願寺に保護されて生き残っていた。成長して有名な絵師となった息子と再会を果たすが、会見では二人は始終無言だったという。
晩年、荒木村重は出家して荒木道糞を自ら名乗る。これは道のクソという意味。
1586年、大坂の堺で死去。病死との説があるが詳細は不明。享年52歳(52歳)
参考文献。日本大百科全書。世界大百科事典。日本国語大辞典。国史大辞典。日本人名大辞典。日本大百科全書。他。
歴史エンタメ【動画】