途中で【腕試しクイズ】と【河田小龍クイズ】の2種類のクイズを用意しています。どうぞ最後までお楽しみください。
河田小龍とは?
河田小龍は1824年(文政7年)の10月25日に土佐国(高知県)に『土生』家の長男として誕生しました。
河田小龍は土佐藩の天才として有名です。
また、坂本龍馬に影響を与えたり、海援隊士を育てたり、ジョン万次郎と共同生活を送ったりと様々な経験や活躍をした人物です。
河田小龍の生涯。幼少期はまさに天才だった!
河田小龍は幼少期から学問が得意でした。さらに圧倒的な絵の才能まで有していました。
その才能は土佐藩の重臣の吉田東洋にも認められ、幼い河田小龍はよく可愛がられました。
また、河田小龍は幼少期からしっかりとエリート教育も受けてきました。
学問は藩の儒学者『岡本寧浦』から学び、絵は藩の陸士である『島村蘭渓』から教わりました。
河田小龍は父の家督を継がず。
才能に恵まれていた河田小龍でしたが、自由奔放な性格をしていたため家を継ぐ義務を放り投げて地侍になってしまいました。家督は弟が継ぐことになります。
「俺の親は下級武士だ。土佐藩では下士が上士に出世する方法が用意されていない。未来のない家督なんて継げるか」
というのがその理由のようです。
『土生』家の家督を捨てた河田小龍は祖父の名字である『川田』姓を名乗ります。
これをのちに改名して河田小龍になりました。
成人すると絵と学問の修行の旅へ。
河田小龍は日本中を遊学します。
時系列を追うと、まず河田小龍は成人が近づくにつれて絵(画)の才能をますます開花させていきました。
吉田東洋はそんな河田小龍の才能が無駄にならないように土佐を出て本場の京都で絵をしっかりと学ぶようにと勧めます。
こうした助言もあり河田小龍は23歳で京都に遊学します。
京都でも絵の才能を存分に発揮する。
河田小龍は京都に着くと絵を学ぶため、すぐに禁裏御所御絵所預り『狩野縫殿之助永岳(狩野永岳)』の門下に入ります。
入門後は門中で忽ち鋭角を現します。
師匠の狩野永岳は河田小龍のことをのちのちは自分の後継ぎにと考えたほどでした。
多くの兄弟弟子がいる中で河田小龍は二条城の襖絵修理の手伝いという大役まで任されます。
河田小龍。絵の道からドロップアウトする。
しかし河田小龍は3年で絵の道からドロップアウトします。
落ちこぼれたわけではなく「絵よりも学問の方が楽しかった」からです。
【絵の天才】兼【学問の天才】は以後、京都や大坂の【学問所】を頻繁に出入りするようになります。
河田小龍。上方の学問だけでは満足できなくなる。
上方の知識を吸い尽くすと、河田小龍は新たな学問の地を求めて今度はわざわざ江戸まで遊学の旅に出ます。
そして最後には蘭学の最先端の地長崎まで遊学の足を伸ばします。
こうして青年期の河田小龍は土佐では体験できない広い西洋の文物に触れ、世界についての視野を大きく広げました。
河田小龍の墨雲洞塾(ぼくうんどうじゅく)。
土佐に帰郷後、河田小龍は土佐藩内随一の知識人となりました。
そして『墨雲洞塾』という私塾を開きます。一応画塾でした。
しかし「絵を学ぼうとする者はまずは学問から学ぶべし」
というのが河田小龍の方針で塾是だったため、どんな塾生も学問所に通っているかのような待遇を受けました。
土佐勤王党の創設者『武市半平太(武市瑞山)』も当時はまだ子供で、この『墨雲洞塾』で河田小龍から学問を学びました。
『墨雲洞塾』の特徴。
・河田小龍が不在のときも解放。
・塾生の多くは下級武士。ただしその階級を問わず、医師や僧侶や商人や漁師といったあらゆる階層の町民たちを『墨雲洞塾』は受け入れた。
・血気盛んな若者たちが議論を闘わせた。いつしか『墨雲洞塾』は幕末志士の卵たちの間で一種の『アジト』のような場所になった。
また、坂本龍馬を支えた海援隊隊士【長岡謙吉】や【新宮馬之助】や【近藤長次郎】も当時この『墨雲洞塾』で河田小龍から学問を学びました。
土佐帰郷後はこのように忙しい河田小龍でしたが、吉田東洋がそんな河田小龍をさらに多忙にします。
河田小龍と吉田東洋。
吉田東洋は土佐藩の重臣で大目付。
当時、土佐の藩主である山内容堂と吉田東洋との間で藩政のラインが成立していた。
(山内容堂ー吉田東洋ライン)
吉田東洋は小さい頃から河田小龍を可愛がり京都に遊学に送り出した人物です。
そんな吉田東洋が土佐藩で一番の知識人となった河田小龍を放っておくはずがありませんでした。
当時有能な人材を革新政策のために登用することが藩の方針だったこともあり、吉田東洋は河田小龍をなんとか自分の配下に入れようと試みます。
しかし河田小龍は宮仕えを嫌って仕官を断りました。
とはいえ単発の仕事(公務)の協力は快く引き受けます。仕事が依頼されるたびに上手くこなしました。
この功績が認められ、河田小龍は一介の画人で地侍であるにもかかわらず土佐藩主・山内容堂から直接恩賞を拝領する機会を度々得ました。
その中でも特に山内容堂公から直接『大水晶印』を拝領した際には河田小龍はその破格の栄誉に浴せたことに感動してこれを家宝としました。
河田小龍は絵・学問・仕事の全てに堪能な天才でした。
しかしそんな河田小龍もジョン万次郎(中浜万次郎)と出会うと大きな困難に直面します。
河田小龍とジョン万次郎(わかりやすい)
ジョン万次郎(中浜万次郎)
1827年に土佐で生まれた漁師の息子。14才のときに仲間と漁をしている最中に遭難し、アメリカ船に救助される。
その後ハワイやアメリカ本土で暮らしてアメリカの学校教育も受ける。一等航海士にもなる。
沖縄、薩摩、長崎を経て25歳のとき土佐に帰郷。
河田小龍は英語がわからない。
河田小龍はアメリカから帰ったばかりのジョン万次郎(中浜万次郎)を取り調べるように吉田東洋から命じられます。
しかし10年以上アメリカで生活をしていたせいでジョン万次郎はすっかり日本語を忘れてしまって英語しか話せません。
英語がわからない河田小龍は日本語やオランダ語の筆談も試みますが伝わりません。そもそも漁師だったジョン万次郎は日本にいた頃から日本語の文字の読み書きができませんでした。
代わりにジョン万次郎は英語の読み書きができました。
共同生活。
自慢のオランダ語も通じず、仕方がないので河田小龍はジョン万次郎と共同生活を送ることを決めます。
河田小龍はジョン万次郎に日本語の読み書きを教え、自分は彼から英語の読み書きとアメリカでの出来事を学びました。
毎晩枕を並べて語り合えるようになると、アメリカの【機関車】の話や【民主選挙】の話しをジョン万次郎から聞きます。これにはさすがの河田小龍もド肝を抜かれました。
そんな毎夜の興味深い話を河田小龍は一冊の本『漂巽紀畧』にまとめます。
しかし河田小龍の外出中にジョン万次郎はこの原本を勝手に持ち出して『漂巽紀畧』を市場に流布してしまいます。そして皮肉な形でベストセラーとなります。
以後河田小龍はジョン万次郎と絶縁して二度と家の敷居を跨がせませんでした。
また、二度と漂巽紀畧の草稿に手を加えようとしませんでした。
そんな河田小龍ですが、まだ一つ歴史に残る大きな役割を残していました。
河田小龍と坂本龍馬。河田小龍が師匠になる。
坂本龍馬には二人の師匠がいたとされています。【河田小龍】と【勝海舟】です。
最初の師匠である河田小龍は坂本龍馬より11歳年上でした。
ある日、坂本龍馬が河田小龍の家を訪れる。
20歳の坂本龍馬がある日、初めて河田小龍の家を訪れます。
時期的には、坂本龍馬が【江戸】で北辰一刀流の免許を与えられて土佐に帰郷したあとほどなくした頃でした。
目的はペリー来航後の激動する時代において、今後自分たちはどのような進路を取るべきなのかの河田小龍に意見を求めるためです。
坂本龍馬は今まで明確な答えが出せずに一人で悩んでいました。
河田小龍は坂本龍馬に感銘を与えて師匠となる。
河田小龍はジョン万次郎から聞いた異国事情、例えばアメリカでは株式会社が流行っていることなどを聞かせます。
そして、河田小龍は西洋式の武器や軍船の必要性、それらをまずは【外国から購入しなければならないこと。購入した船を利用すれば貿易などもできること】も説きます。
この考えに坂本龍馬は感動して共鳴します。
そしてこの瞬間、坂本龍馬は土佐の一介の剣士から歴史に名を残す【坂本龍馬】に変貌を遂げました。
河田小龍の【発想力】と坂本龍馬のそれを【発展させる力、実行力】は結びつきました。
坂本龍馬は河田小龍から聞いた理想を実現するために【海援隊(亀山社中)】を創設します。
坂本龍馬は亀山社中を創設しのちに海援隊に発展させる。
亀山社中は日本初の株式会社であり貿易会社であり準軍事組織であり間接的に薩長同盟にも貢献した組織。
海援隊はその後継組織。
河田小龍も海援隊士に『墨雲洞塾』で育てた優秀な人材を送り込むなどして坂本龍馬を補佐しました。
河田小龍と坂本龍馬は離れていても手紙のやり取りもしました。
これらの出来事はすべて二人の偉人が結びついた輝かしい瞬間でした。
晩年。
弟子であり盟友でもある坂本龍馬が暗殺されると河田小龍は深い失望に沈みました。
また、自らが手掛けた製塩事業も失敗に終わりました。
晩年には河田小龍は土佐を出て絵筆を握り若き日のように【京都】で暮らします。
青年時代とは異なり晩年の河田小龍は絵筆の道に専念しました。
その結果、河田小龍は絵筆において名声を獲得して明治天皇の御前で絵を描く栄誉に浴せたこともありました。
そして最期は大勢の弟子たちに看取られます。75歳でした。
参考文献。
世界大百科事典。国史大辞典。日本百科全書。他。
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