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この記事では、浅野長政と徳川家康の関係や逸話・エピソードを6つに分けて解説しています。
第6位。徳川家康の結婚を浅野長政が仲介
浅野長政の主君は豊臣秀吉です。
1584年に主君の豊臣秀吉は徳川家康と小牧・長久手の戦いで争いました。
この戦いで徳川家康を武力で倒すことは不可能と悟った秀吉は、政治的に徳川家康を自分に従わせようと考えます。
徳川家康を関白である自分がいる京都に上洛させ、臣下の礼をとらせることができれば豊臣秀吉の作戦は成功です。
作戦の成功に向けて秀吉は家康を上洛させる(京都に連れてくる)ために自分の妹である朝日姫を徳川家康の正室として嫁がせます。
朝日姫と徳川家康の結婚に際しては多くの秀吉の家臣が関わりました。
その中の一人として浅野長政は輿入れの際に朝日姫と浜松城まで同行します。
すると浅野長政の利用価値を見抜いていた徳川家康は、好印象を与えるために浅野長政を手厚くもてなしました。
第5位。小田原征伐で浅野長政が徳川家康の謀反の疑いを晴らす
豊臣秀吉が天下をほぼ手中に収めた頃(1590年)、関東の北条氏は未だに豊臣秀吉に抵抗の姿勢を示していました。
そこで豊臣秀吉は北条氏の本拠地の小田原征伐を行います。
このとき、東海地方に莫大な領地(130万石)を領有していた徳川家康は豊臣秀吉の友軍でした。
しかし徳川家康は北条氏と縁戚関係にあり、そのため友軍のはずの豊臣秀吉を裏切る可能性が疑われました。
豊臣秀吉と徳川家康は元々6年前の1584年には実際に小牧・長久手の戦いで交戦しています。
徳川家康が北条氏と組んで再び豊臣秀吉に反旗を翻すと豊臣軍の戦況は一気に不利になります。
このような情勢下で確証もないのに【徳川家康の裏切り】を豊臣秀吉に注進した人物がいました。
そう、石田三成が事あるごとに徳川家康を悪く言ったのです。
おかしな告げ口をされると徳川家康が困ります。
この石田三成の発言から徳川家康をかばったのが浅野長政でした。
以下の2つのエピソードがそれを示しています。
エピソード1
豊臣秀吉が沼津城に進軍する際、河を渡らなければなりませんでした。
しかし河には橋がありません。
そこで徳川家康の部下の伊奈忠次が小舟をつなげて橋の代わりにします。
豊臣秀吉が小舟を渡って向こう岸に行こうとしたところ、石田三成が徳川家康の裏切りを疑って豊臣秀吉を思いとどまらせました。
そこで浅野長政が安全であることを証明するために自らの軍勢を率いて小舟の橋を渡ります。
浅野長政により安全が証明されたため豊臣秀吉も橋を渡り、ことなきを得ます。
浅野長政の行動により徳川家康は面目を保つことができました。
エピソード2
また、豊臣秀吉が小田原に向かう道中で徳川家康の居城である駿府城に宿泊する際も石田三成は徳川家康の裏切りを疑います。
石田三成が「裏切りの可能性のある徳川家康の城に泊まってはいけませぬ」
と豊臣秀吉に告げた際、浅野長政は「家康殿はそんな方ではありませぬ」と秀吉を説得します。
結局秀吉は家康の駿府城に泊まり、家康から素晴らしいもてなしを受けました。
この二つの事件において、浅野長政がいなければ、秀吉の徳川家康に対する心証は悪化していました。そうなることを浅野長政が防ぎました。
第4位。豊臣秀吉の怒りを買った浅野長政を徳川家康が救う
文禄の役で豊臣秀吉は自ら朝鮮に渡ることを考えていました。
小田原征伐のときのように自分自身が朝鮮に出向いた方が早く征服できると考えたのです。
秀吉の意見を聞いた石田三成は「すぐに(秀吉が渡海するための)船を造りましょう」と賛成します。
しかし浅野長政は以下の名言で豊臣秀吉を説得します。
「殿下は昔と随分お変わりになられた。たぶん(妖怪の)古狐に殿下はとりつかれているのでしょう」
秀吉は真面目に渡海を計画していました。それなのに「殿下は古狐にとりつかれている」と言われれば腹が立ちます。
許せないと感じた豊臣秀吉は激高して抜刀しました。
それでも浅野長政は微動だにせず悠然と豊臣秀吉を見据えます。
「私の首みたいなものは何十回刎ねようとも天下に影響はございません。しかし朝鮮出兵は違います。影響は甚大で、無益な朝鮮出兵が原因で朝鮮の8道及び日本の60余州が困窮しております。このまま殿下が軍を率いてが朝鮮に渡れば世の中はますますひどいありさまになるでしょう。だからご自身の渡海はお控えください」
豊臣秀吉の怒りは収まりませんでしたが、義兄弟の浅野長政を斬ることはありませんでした。
浅野長政は牢に入れられます。そこで徳川家康が豊臣秀吉を説得します。
この説得が功を奏して浅野長政をお咎めなしとなりました。
結果的に浅野長政は徳川家康に救われました。
第3位。 徳川家康が浅野長政の息子を救う
1595年、豊臣秀次に【豊臣秀吉に対する謀反】の疑いがかけられ、豊臣秀次は切腹させられます。
この大事件に浅野長政の嫡男が巻き込まれます。
切腹させられた豊臣秀次の正室は池田恒興の娘であり、浅野長政の息子の浅野幸長の正室も同じく池田恒興の娘でした。
つまり浅野長政の息子の妻と豊臣秀次の妻は姉妹同士でした。
このことから浅野長政の嫡男の浅野幸長は豊臣秀次を弁護します。
豊臣秀吉はこの行為に激怒して浅野幸長を能登国(≒石川県北部)に流罪にします。
しかし徳川家康が豊臣秀吉を説得したことにより、浅野幸長はのちに許されました。
浅野長政は息子を救ってくれた徳川家康に対して恩義を感じました。
第2位。徳川家康の関ケ原の戦いと浅野長政の関係
豊臣秀吉の死後の1599年(関ケ原の戦いの1年前)の時点で浅野長政は豊臣家の五奉行の中で最大の領地を持つ大名でした。
つまり浅野家の家紋が五奉行の中では一際威光を放っていたのです。
また、領国の甲斐国(≒山梨県)は、北条氏の遺領(ほぼ関東全域)を領有する徳川家康に対してにらみを利かせるのに適した場所でした。(生前の豊臣秀吉はそれを狙って浅野長政を配属しました)
こうした事情から浅野長政は徳川家康にとっては目障りであり、なんとか味方に引き入れたいと考える存在でした。
一方で浅野長政の心中は複雑です。
秀吉との間には色々あったとはいえ長政と秀吉は幼少期からの義兄弟です。
そして浅野長政にとって豊臣家は仕えるべき主君でした。
迷える浅野長政に突然事件が降りかかります。
1599年に【浅野長政たちが徳川家康の暗殺を企んでいる】という噂が流れたのです。
浅野長政は隠居しましたが、徳川家康の領地である武蔵国(≒東京とその周辺)の府中での蟄居(謹慎)を命じられます。
諸説ありますが、これは徳川家康が浅野長政を排除するために起こした陰謀だとする説が有力です。
しかし翌年の1600年の関ケ原の戦いでは浅野長政は息子の浅野幸長とともに徳川家康の味方をします。
息子の浅野幸長は岐阜城攻めで戦功を挙げ、戦後徳川家康から紀伊(≒和歌山)に37万石の領地を与えられました。
第1位。徳川家康と浅野長政の囲碁。
なぜ徳川家康が浅野長政を徹底的に叩き潰さなかったのか。
それにはお互いの気が合ったからという人間臭い事情があります。
浅野長政と徳川家康の歳の差は4歳です。(浅野長政の方が4歳若い)
二人は年齢が近いだけでなく【囲碁】という共通の趣味がありました。
浅野長政には朝鮮出兵時、黒田官兵衛と囲碁に熱中していて石田三成の来訪に気づかなかった。石田三成は怒って帰り、秀吉に言いつけたという逸話があります。
一方で徳川家康は若い頃は囲碁をくだらないと考えていましたが、歳を取ると囲碁が大好きになり伊達政宗や織田信雄などの戦国武将を相手に囲碁を楽しんでいました。
そのなかでも徳川家康の一番のお気に入りの対戦相手は浅野長政でした。
理由は単純で、浅野長政と徳川家康の囲碁の実力が最も近かったからです。
浅野長政は徳川家康との対局中には熱くなり、偉い人(征夷大将軍)が相手であることも忘れて徳川家康に向かって悪態をつくこともしばしばありました。
また、囲碁の名人の本因坊算砂が徳川家康にアドバイスを送ると、抜刀して
「次に助言を送れば斬る」と激怒することもありました。
このエピソードからは浅野長政の悔しがる顔が現代人の目にも浮かんできます。
徳川家康はそんな浅野長政を好み、勝ったり負けたりする浅野長政とのしびれる囲碁の戦いを楽しんでいました。
また、関ケ原の戦いの6年後(1606年)には、徳川家康は浅野長政のために5万石の隠居料まで支給します。(常陸国の真壁・筑波)
しかし1611年に浅野長政は享年64歳で死去します。
68歳の徳川家康はショックのあまりそれからしばらく囲碁の対局を誰ともしなくなったとの逸話が残されています。
徳川家康と浅野長政は最高の囲碁のパートナーでした。
なお、楽しみを奪われた徳川家康は豊臣家の攻撃に集中するようになり、その4年後に大坂の陣で豊臣家を滅亡させています。
参考文献。日本大百科全書。世界大百科事典。日本国語大辞典。国史大辞典。日本人名大辞典。日本大百科全書。他、図書館の多数の書籍。
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