最後に清原元輔の百人一首クイズも用意しています。どうぞ最後までお楽しみください。
清原元輔とは?
清原元輔の家系は歌詠みの家系として有名です。
百人一首の36番に入撰した偉大な歌人である清原深養父の孫が、清原元輔です。
そして清原元輔自身も百人一首の42番に入撰しています。
さらに娘は清少納言で、清少納言も百人一首の62番に入撰しています。
清少納言が自分が下手な和歌を詠んで父の名を汚してはいけないと気を遣っていたほど、清原元輔は高名な和歌詠みとしての名声を獲得していました。
清原元輔は『後撰和歌集』を撰定する『梨壺の五人』と呼ばれたり、藤原公任の選ぶ三十六歌仙の一人に選ばれたりと和歌の世界で活躍しました。
また、生活の面では清原元輔は下級貴族なので中々官位が上がらず、44歳になってようやく官職につくことができた苦労人です。清少納言は元輔が59歳のときの子供でした。
清原元輔は亡くなるまで働き続け、肥後守として肥後(熊本県)で最期を迎えます。83歳でした。
清原元輔の百人一首。
契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは
百人一首:42番
作者 :清原元輔
この和歌は清原元輔が上級貴族の代わりに詠んだ和歌です。
当時は下級貴族たちのうち、清原元輔のように特に和歌にすぐれた一部の歌人たちは、和歌の代詠を一種の副業のようにしていました。
当時の貴族社会では上級貴族が有名な歌人に自分の和歌を代詠してもらうことはよくある事でした。
現代でいう料理を料理の上手い人に作ってもらうような感覚です。
そんな【代詠】として清原元輔が平安時代に詠んだ作品が、優秀な和歌として認められて鎌倉時代初期に編纂された百人一首に入撰しました。
清原元輔の百人一首の現代語訳
この和歌は本歌取りという技法を用いているため、別の和歌が本歌としてあります。
そのため背景を知らずに現代語訳だけを呼んでも少し分かりづらいところがあります。
また、この百人一首中の【末の松山】とは宮城県の海岸近くにあったとされている山で、どんな高波でもこの山を越すことは決してできないといわれていました。この【末の松山】は枕言葉になっています。
この和歌が詠まれた背景と意味
この百人一首の和歌は本歌に以下の和歌を取っています。
本歌。
君をおきて あだし心を わが持たば 末の松山 波も超えなむ
現代語訳
あなたを差し置いて 私が他の人を想うような気持ちを、私が持つことがあれば、末の松山を、波だって超えてしまうでしょう。そんなことはありえないことです。
つまり、本歌は愛を約束した歌です。
そして清原の元輔が詠んだ和歌。これは自分を裏切った相手をなじる歌です。
契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは
私たちは固く約束しましたよね。互いに涙で濡れた袖を絞りながら、末の松山を波がこすことがないように、二人の愛は不変のものにしましょうと。
清原元輔のこの相手を非難する和歌は、なぜ裏切ったんだよ、最低だ、バカ。とストレートに言っているわけではありません。
本歌取りまで行い、技巧をこらし、ぐさぐさと相手に確認しながら約束を破ったことを非難しています。
同じシチュエーションで、これ以上上手に相手をなじる和歌を誰が作ることができるでしょうか?
普通の貴族にはここまで上手く作れません。
その意味でこの和歌は非常に優れていたため、恋愛で自分を裏切った相手を非難するタイプの和歌におけるトップレベルの和歌のひとつとして、清原元輔のこの和歌が百人一首に選ばれました。
契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは
私たちは固く約束しましたよね。互いに涙で濡れた袖を絞りながら、末の松山を波がこすことがないように二人の愛は不変のものにしましょうと
最後にお楽しみクイズをどうぞ
参考文献。日本大百科全書。日本国語大辞典。国史大辞典。他。
現代語訳。
契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは
私たちは固く約束しましたよね。お互いに涙で濡れた袖を絞りながら、末の松山を波がこすことがないように、二人の愛は不変のものにしましょうと。