松平広忠は徳川家康の父です。
さて、この松平広忠は義理の妹の於大の方と結婚しています。
これは史実です。
ところで、松平広忠は何で義理とはいえ妹と結婚してるんだ?
おかしいですよね?
さっそく、その理由を調べてみました。
松平広忠と妻の於大の方の調査結果
まずは史実から。
調査の結果、判明したのは松平広忠と於大の方が義理の兄妹で結婚したという史実だけです。
この史実に対して多くの歴史家は水野家と松平家を結び付けるための政略結婚であると解釈をつけています。
なるほど、松平広忠が於大の方を正室に迎えたのは政略結婚か、と私は納得しましたが、これだけでは何か物足りません。
そこで、今回は歴史小説の中からこの兄妹結婚の理由を拝借しました。
今回お伝えするのは、山岡荘八氏の『徳川家康』の小説の中で語られた松平広忠と於大の方との兄妹結婚の理由です。
結構満足感のある内容でした。
於大の方を正室に迎えた理由
これによると、松平広忠は側室を愛していて、徳川家康の実母となる於大の方を正室に迎えるのを拒もうとしていました。
しかし、当時の松平広忠はまだ16歳と若く、家臣団に於大の方との結婚を強く勧められてしまいます。
家臣が結婚を勧めた理由は、於大の方の父にありました。
於大の方の父の名前は水野忠政といい、松平広忠の居城である岡崎城の近隣の刈谷城の城主でした。
今川家と織田家といった大勢力に挟まれている中、松平家と水野家が争っていては両家とも滅びるという背景から、側室を愛する松平広忠以外の全ての関係者が二人の結婚を望んでいました。
もちろん義理の母も結婚を望んでいました。
さて、この松平広忠の義理の母である華陽院はもともと水野忠政の妻でしたが、松平広忠の父である松平清康と再婚したという史実があります。
この史実に対して、小説の中では、松平清康の存命時は、松平家の方が水野家よりも強かったので、華陽院を気に入った松平清康が酒の席で水野忠政に妻を寄越すようにせまった。そこで水野忠政と5人の子供たちは泣く泣く妻(母)と離縁したと、その背景が語られています。
そして、清康の死後、後継ぎの若い松平広忠はこの義理の母や水野忠政や家臣たちからの於大の方との結婚の要求を断ることができませんでした。
松平広忠の於大の方の毒殺計画
そこで、松平広忠は結婚したあと於大の方の食べ物に毒を盛って毒殺する計画を側室に語ります。
そうすれば愛する側室と広忠の間に邪魔は入りません。
こうした考えを腹に抱えたまま、松平広忠はついに於大の方との結婚を受け入れます。
こうして義理の兄妹同志での結婚が成立し、松平家と水野家の両家も結びつきました。
於大の方は岡崎城に輿入れして初めて、幼い頃に生き別れた実母の華陽院との再会が叶い喜びました。
さて、松平広忠が於大の方を暗殺する計画ですが、この計画は於大の方の魅力により中止されます。
松平広忠は、聡明な於大の方と実際に触れ合ううちに、心が次第に於大の方へと傾いていき、暗殺計画のことなど忘れてしまいました。
そしてついに於大の方は家康を妊娠します。
家康は無事に生まれ、しばらくの間この若い夫婦は幸せな時間を送りました。
しかし、於大の方の父である水野忠政が死に、彼女の腹違いの兄が水野家を継ぐと状況は急変します。
当主交代した水野家は今川家を裏切り織田信秀に仕えます。
水野家と婚姻関係にある松平家は今川家から、松平家も水野家のように今川家を裏切るのではないかと疑われます。
そして実際に織田家も水野家を通じて織田家に与するように働きかけます。
今川家からの疑いの目を晴らすために、松平広忠は泣く泣く最愛の妻の於大の方と離縁します。
こうして水野家と松平家の縁戚関係は断ち切られ、於大の方は岡崎城を出て水野家の刈谷城に戻ります。
松平家が今川家に疑われて攻め滅ぼされるという事態は回避することができたものの、こうして松平広忠と竹千代(徳川家康)は最愛の正室と母を失いました。
なんたる悲劇!(涙)
松平広忠と妻の於大の方の史実
史実と解釈がごっちゃにならないように明確な史実だけまとめておきますね。
・松平広忠の父の松平清康は水野忠政の妻の華陽院と結婚した。(史実)
・松平清康の息子の松平広忠は水野忠政と華陽院の間に生まれた娘である於大の方を正室として迎えた。(史実)
・松平広忠と於大の方との間には竹千代(徳川家康)が生まれた。(史実)
・松平広忠と於大の方は離婚した。(史実)
最後にこの小説家に感想を一言。
少ない史実を元にして、想像力を働かせ、物事の理由や背景を補う発想力や解釈力がすごい!
一流の時代小説家が語ると、なるほど、松平広忠と於大の方の間にはそういう事情があったのか、と納得してしまいます。
参考文献。日本大百科全書。世界大百科事典。日本国語大辞典。国史大辞典。日本人名大辞典。日本大百科全書。他、図書館の多数の書籍。
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