途中で【腕試しクイズ】と【織田信秀の死因クイズ】の2種類のクイズを用意しています。どうぞ最後までお楽しみください。
織田信秀の死因には3つの説がある。
織田信長の父である織田信秀の死因についての説は3つあります。
それは病死説と腹上死説と暗殺説です。
現在では病死説がほぼ100%認められています。
さっそく結論になってしまいますが、織田信秀の死因は病死だと覚えて構いません。
腹上死説と暗殺説は根拠が乏しくなっています。
では、まずは病死説から順番に見ていきましょう。
織田信秀の死因が病死説。
織田信秀は41歳という若さで世を去ります。
16歳のときに父から織田家の家督を継いで以来、戦いに明け暮れた戦国武将らしい生涯でした。
当時は栄養失調で早死にする人もいたのですが、織田信秀の場合はその地位から考えると栄養失調は死因として除外することができます。
『信長公記』では、織田信秀は流行り病で亡くなったとされています。
このとき織田信秀が患った病名は特定されていませんが、諸説があります。
糖尿病、脂質異常症、高血圧症、動脈硬化、虚血性心疾患、脳血管疾患などの病がそれです。
戦国時代の武士たちの間では塩が活力を与えると広く信じられていたため、塩分の摂り過ぎがあったとか、娯楽の少ない時代であったためアルコールの摂り過ぎがあったなどの説もあります。
それらが本当であれば確かに健康を損なうには十分な理由になります。
また、織田信秀の晩年は三河を巡る今川氏との戦いで劣勢であったため、強いストレスにさらされる環境だったこともあり、それが信秀の免疫力を低下させたとする説もあります。
しかし詳しいことは文献の不足により残念ながら不明です。
ですが信長公記の記録により、織田信秀の死因は病死というのが定説になっています。
織田信秀の死因が腹上死説。
栄養の足りている成人男性が突然死する原因は限られています。
心臓や脳などの血管系のトラブルです。
それらのトラブルは「いつ」起こっても不思議ではありません。
特に高血圧・狭心症・不整脈を持っている人間が飲酒をした後に行為に及ぶと腹上死のリスクが各段に高まります。
行為の興奮による血圧の上昇や心拍数の上昇がそうした人間に脳出血や心停止を引き起こすからです。
さて、織田信秀の死因は本当に腹上死なのでしょうか?
例えば殿様が若い愛人の腹の上で死んだ場合、家臣たちは
ということはできません。主君を侮辱することになるからです。
そのため後世に記録を残す記録係も主君の死因を「病死」として片づけるパターンがあります。
織田信秀もこのパターンだったと考えるのが【織田信秀腹上死説】のゆえんです。
しかし織田信秀の死因が【突然死】だという証拠はありません。
突然死でなければやはり普通の病死ということになり、この説の信頼性は低くなっています。
織田信秀の死因が暗殺説
この説の根拠は【当時の環境】にあります。
織田信秀は後継ぎを嫡男の織田信長に定めていたのですが、柴田勝家や林秀貞ら有力家臣たちは次男の織田信勝(信行)を後継者として支持していました。
織田信秀が病床についていた晩年には、織田信秀がまだ存命中であるにもかかわらず、織田信勝(信行)が当主のようなふるまいを始めました。
そして父の織田信秀が没するとすぐに織田信勝(信行)が喪主として葬儀を執り行います。
そのあと織田信勝は父織田信秀の居城であった末森城を継ぎます。
さらには家臣団をまとめあげて兄である織田信長と対決することになります。
このとき織田信勝の味方は1700人。一方で織田信長の味方はわずかに700人でした。
当然のように織田信勝が織田信長を倒して織田家を実力で継ぐことができる流れでした。
つまり、織田信秀が暗殺されることで一番利益を得るのは織田信勝でした。
これが織田信勝による父・織田信秀暗殺説になります。
また、当時の尾張や三河では暗殺が行われることが度々ありました。
(徳川家康の祖父、松平清康を織田信秀の刺客が暗殺したとの説あり〈森山崩れ〉)
暗殺が珍しくない環境であったことから、織田家の主敵である今川家による織田信秀の暗殺説もささやかれています。
しかしいずれの説にせよ根拠がなく、信長公記に記された病死説を覆すほどのものではないとされています。
こうしたことから織田信秀の死因の結論は病死となっています。
参考文献:日本大百科事典、日本国語大辞典、国史大辞典、日本人名大辞典、他。
「お殿様が若い愛人の腹の上でお亡くなりになられた」