今日の担当者
最後にクイズを用意しています。
楽しんでいただけると幸いです。
酒井忠次は徳川家康より15歳年上の重臣であり、徳川四天王の中で最年長の人物です。
そんな酒井忠次の年表を用意しました。
年表
西暦 | 年齢 (数え年) | 出来事 |
1527年 | 1歳 | 松平家の譜代家臣の酒井忠親の次男として井田城(愛知県岡崎市井田町)に生まれる。主君となる徳川家康よりも15歳年上だった。 |
1549年 | 23歳 | 8歳の竹千代(のちの徳川家康)が駿府の今川家の元へ人質に赴く際に酒井忠次が同行する。 |
1556年 | 30歳 | 織田家の柴田勝家に三河の福谷(うきがい)城を2000の兵で攻められるも奮戦して柴田勝家を負傷させて撃退する。 |
1560年 | 34歳 | 桶狭間の戦いが勃発。今川義元の討ち死にを期に、家康は三河に戻り今川家から独立を果たす。以後、酒井忠次は家老としてますます活躍する。 |
1563年 | 37歳 | 三河の一向一揆が勃発。 農民だけでなく、家康の家臣の武士の中にも一向一揆に加わる者が多くいた。 たとえば酒井忠次の叔父で家老の酒井忠尚が家康に敵対する。この状況で酒井忠次は家康に味方した。 酒井忠次は数十度の合戦に出陣し、つねに先駆けとして戦功を顕した。 |
1565年 | 39歳 | 東三河の要衝で今川方の吉田城を酒井忠次の交渉で無血開城させた。 具体的には、吉田城が包囲され、吉田城の周りの砦も抑えられたところで、今川家の武将で吉田城主の小原鎮実が酒井忠次の提案に応じた。 提案の内容とは、小原鎮実の軍は吉田城から退却して城を明け渡すが、退却中に徳川軍が攻撃しないという保証のために、酒井忠次から人質を受け取るというもの。 吉田城を手に入れた後、家康が城を与えたため、酒井忠次は吉田城主になった。 |
1568年 | 42歳 | 酒井忠次は今川氏真の遠江に侵攻し、土豪の佐原重吉、内藤三左衛門、松野三右衛門らと今川方の境目城を陥落させる。 同月、境目城の北方一里の距離にある今川方の宇津山城を攻める。 宇津山城主は小原鎮実(かつての吉田城主)が務めていた。 小原鎮実の家老の増田団右衛門は城より討って出て酒井軍と戦い討死にした。 宇津山城主の小原鎮実は宇津山城に爆薬を仕掛けて浜名湖から逃亡する。 酒井軍は爆発音に驚いたが死傷者はでなかった。 結果、酒井忠次の功績により今川方の境目城と宇津山城の二城の攻略に成功した。 |
1570年 | 44歳 | 織田信長の援軍として家康とともに出向いた近江の姉川の戦いで、 酒井忠次が徳川軍の先鋒(第一陣。ちなみに第二陣は榊原康政)を務めた。 酒井忠次の軍は朝倉軍を打ち破る。 同年、酒井忠次は近江の六角軍とも戦い勝利した。 |
1571年 | 45歳 | 武田信玄が三河の足助(あすけ)城を攻め落とし、続いて二連木(にれき)城を攻めると、酒井忠次は援軍として出陣し、武田軍を二連木城から退かせた。 しかし今度は、武田軍は酒井忠次の居城である吉田城を攻略しようと動いた。これに徳川家康は遠近江の浜松城から自ら2000の兵を率いて吉田城に援軍に駆け付けた。すると武田信玄は息子の武田勝頼と山形昌景ら8000の兵で吉田城を攻めた。酒井忠次は自ら幾度も城外に切って出ると、なんとか城を守り抜いた。その後徳川軍と武田軍は幾度も東三河で小競り合いを繰り返したのち、武田軍は五月中旬に甲州に引き返した。 |
1573年 | 47歳 | この年、三方ヶ原の戦い勃発。 二俣城を落とし東三河に侵入した武田軍を、徳川軍が織田家の援軍とともに三方ヶ原という場所で迎え撃った。これが三方ヶ原の戦い。 三方ヶ原の戦いでは徳川軍は鶴翼の陣を取った。 織田の援軍と酒井忠次の軍が鶴翼の陣の右翼を担当した。 左翼は石川数正や本多忠勝が担当した。 戦いが始まるとまず、徳川軍の右翼に武田方の小山田信茂が突撃し、織田の援軍(佐久間信盛、平手長政)が押し込まれた。 左翼は武田方の山県昌景が突撃したが、本多忠勝の部隊が強く、武田軍が7,8百メートルほど後退していった。 しかし右翼の小山田隊はますます進撃した。 これによって援軍の織田軍は破られ平手長政は討ち死にした。 しかし徳川方もやられっぱなしではなく、右翼の酒井忠次の部隊が小山田信茂相手に奮戦し、小山田軍を5,6百メートルほど後退させることに成功した。 武田勢は小山田の隊に変えて、馬場信春の部隊を酒井軍との戦いに投じた。 さらに武田信玄の息子の武田勝頼の命令により諸部隊が徳川軍の側面に攻撃をしかける。 すると、酒井軍も崩された。 戦場全体が敗色濃厚となり、徳川軍は撤退を開始した。 酒井忠次も浜松城に逃げ帰る。 浜松城の前まで追いかけ城を攻めようとする武田の兵士たちに対して、酒井忠次が太鼓を打ち鳴らした。 武田の兵士たちは太鼓の合図で背後から徳川軍の伏兵が現れ、城の兵士と挟み撃ちに合うのではないかと恐れ引き返したという。 この話は「酒井の太鼓」という逸話として残っている。 また、この敗北のとき家康が緊張のあまり馬上で脱糞し、鞍坪の上に糞が落ちているのを見た酒井忠次は、それを指摘して主君の狼狽ぶりをからかった。 家康はこれは腰の味噌が落ちたのだと弁解した。 忠次は生死の境をさ迷った主君をからかっても許されるほどの重臣だった。 また、三方ヶ原の戦いで敗れて落ち込んでいる諸将に海老すくいの踊りを命じた。 滑稽な踊りで陰の気分から陽の気分へと転換させる目的だった。 |
1575年 | 49歳 | 長篠・設楽原の戦い勃発。 酒井忠次は海老すくいという踊りが得意だった、 海老すくいとは、どじょうすくいを彷彿とさせる珍妙な御座敷芸で、長篠の戦いの決戦前夜に、このえびすくいの踊りを踊るように酒井忠次は織田信長から命じられた。 酒井忠次が踊ると、織田信長は喜んだ。 また、酒井忠次は織田信長に武田方の鳶ヶ巣山砦の奇襲攻撃を献策。別動隊を率いて砦を落とし信長から賞賛された。 |
1579年 | 53歳 | 徳川家康の嫡男の松平信康が織田信長の命令により切腹。 このとき織田信長への使者を酒井忠次が務めた。 江戸時代初期の三河物語という文献によると、 松平信康の妻で織田信長の娘である徳姫は、夫の母、つまり今川の血を引く姑の築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になったので、父である信長に対して12箇条の手紙を書き、使者として信長の元に赴く徳川家の重臣の酒井忠次に託した。手紙には信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼と内通していることなどが記されていた。信長は使者の酒井忠次を問いただしたが、忠次は信康を全く庇わず、すべてを事実と認めた。この結果、信長は家康に信康の切腹を要求した。 家康は8月29日に正室で信康の母の築山殿を護送中に斬り、さらに9月15日、二俣城に幽閉されていた信康に切腹を命じた。 |
1582年 | 56歳 | 本能寺の変勃発。 わずか30数名の伊賀越えでは家康に付き従う。 本能寺の変の後、三河に帰還するとすぐに、酒井忠次は家康から信濃の経略を命じられた。 忠次は3千の兵を率いて信濃に向かい、諏訪頼忠の高島城攻略を企てるも、北条氏の軍が2万の軍勢で援軍に駆け付けたため退却。 忠次は追いすがる敵を鉄砲を巧みに使って撃退しながら、無事に撤退を完了した。 |
1584年 | 58歳 | 小牧・長久手の戦い勃発。 小牧・長久手の戦いでは犬山城を羽柴方の池田恒興が占拠。 また、羽柴方の森長可は犬山の南方の羽黒砦に味方の池田軍から突出する形で陣取った。この戦いで酒井忠次の軍は森軍を奇襲して破り、孤立した池田軍と敗れた森軍は撤退した。 余談だが、同じく小牧・長久手の戦いの岩崎城の戦いで敵将の森と池田はともに討ち死にするのだが、これは酒井忠次はあまり関係なく、二人を破ったのは井伊直政の軍だった。 池田は赤井長勝という一人の武将の槍によって戦死し、森は鉄砲足軽に狙撃され眉間を撃ち抜かれ戦死した。 |
1585 年 | 豊臣政権の臣従要求に対して、酒井忠次や本多忠勝は強硬派として反対し、石川数正は融和派として賛成した。 なお、この年の11月には重臣の石川数正が徳川家を出奔し豊臣家に寝返った。翌年家康は豊臣家への臣従を決意した。 | |
1586年 | 60歳 | 徳川家康はこの年、自分の娘を相手の嫡男に嫁がせて同盟関係にあった北条氏政を訪れた。 このとき酒井忠次も家康に同行していた。 酒井忠次は家康と氏政が対面したときに、得意の海老すくいを酒宴の席で披露した。 |
1588年 | 62歳 | 酒井忠次は長男の酒井家次に家督を譲って隠居した。 忠次は豊臣秀吉から京都に桜井屋敷と、近江に1000石の在京料を与えられる。 このことは、1000石の隠居料を秀吉から与えられて忠次が多少秀吉に懐柔されたとも見える。 |
1590年 | 64歳 | 家康が国替えで関東入封、このときの知行割で榊原・本多十万石、井伊の12万石と比べて忠次の跡継ぎの酒井家次が三万石だった。 跡継ぎ息子が与えられた所領が少ないと、隠居の身でありながら酒井忠次は家康に加増を嘆願した。 すると家康は 「お前でも子供がかわいいか」といったという。 これは家康の嫡男の松平信康が信長から切腹するように命じられたとき、忠次が弁護しなかったことをなじったものだという。 |
1596年 | 70歳 | 1596年没。享年70歳。 一説ではこの頃の忠次は視力のほとんどをなくしていたとされる。 京都桜井屋敷で死去した。墓所は知恩院の塔頭・先求院。墓は知恩院山腹の墓地内にある。 |
酒井忠次の年表からわかること
・享年70歳とは、当時にしては長生き。
・酒井忠次と徳川家康は親戚関係にあったことも影響したのか、信頼されて忠次は家康と行動をともにすることが多かったことが年表からわかる。
・30代、40代、50代に酒井忠次は最も活躍していることが年表からわかる。
・酒井忠次は、徳川家康の幼少期や今川家からの独立といった、最初期から貢献している武将であることが年表からわかる(途中から活躍を始めたわけではない)。
この初期の頃の役割は、他のどの武将とも替えの利かないもののように感じられる。(有名な徳川家の武将はこの時期は若すぎたり幼くて忠次の代わりは務まらなかった)
・酒井忠次の晩年、62歳で隠居してから70歳で亡くなるまでの間の8年間は、特に何も活躍していたない。
参考文献。日本大百科全書。世界大百科事典。日本国語大辞典。国史大辞典。日本人名大辞典。日本大百科全書。他、図書館の多数の書籍。
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