途中で【腕試しクイズ】と【河田小龍と坂本龍馬クイズ】の2種類のクイズを用意しています。どうぞ最後までお楽しみください。
坂本龍馬の最初の師匠は河田小龍。
坂本龍馬は日本で最初の株式会社を設立したり、薩長同盟を成立させたりした偉人ですが、その思想や思考はいったいどこで培われたのでしょうか?
そこには二人の師匠の影響があったとされています。
坂本龍馬の二人の師匠とは最初の師匠の【河田小龍】と二人目の師匠の【勝海舟】です。
この記事では坂本龍馬と【河田小龍】との関係に注目しています。
師匠に会う直前の坂本龍馬の状態。
坂本龍馬は一人目の師匠、河田小龍と出会う前と出会った後とではいったいどのように変化したのでしょうか。
それを知るためにもまずは河田小龍に出会って幕末を羽ばたく、その直前の坂本龍馬の様子を見ていきましょう。
20歳の坂本龍馬、土佐に帰郷する。
江戸の千葉道場で修行をしていた坂本龍馬は、19歳の頃に北辰一刀流の免許を得て20歳の頃に故郷の土佐に帰ります。
免許を獲得したからといって必ずしも土佐に帰郷しなければならない決まりはありませんが、それにもかかわらずこのとき坂本龍馬が土佐に帰った理由は2つあります。
そんな坂本龍馬ですが、帰郷後も消えない悩みを胸の内に抱えていました。
自分が磨いた剣技に意味はあるのか?
坂本龍馬が帰郷したのは20歳のときですが、その1年前、19歳の時にペリーが日本に初来航します。
江戸にいた坂本龍馬はその騒ぎを肌で感じていました。
数々の苦節、厳しい鍛錬を経てようやく手に入れた自分の刀術もあの黒船の前には無力だ。そんな思いが土佐の坂本龍馬の胸を悩ませます。
これからいったい自分は武士としてどのような進路を取れば良いのか。
武士として黒船や異国の軍隊と対面したとき自分はどうあるべきなのか?
坂本龍馬は土佐(高知県)の鏡川のほとりで佇み水面に問いかけますが答えは得られません。
若き日の坂本龍馬は土佐で悶々とした日々を過ごします。そんなときに河田小龍と出会います。
坂本龍馬は土佐随一の知識人【河田小龍】の存在を意識する。
河田小龍という人物を簡単にわかりやすくまとめると以下のようになります。
・幼い頃から村の神童と呼ばれた天才。【京都】【大坂】【江戸】【長崎】への遊学経験がある。絵を描くのも得意。
・蘭学をはじめ、学問が得意。墨雲洞塾という画塾兼学問塾を開いている。
・ジョン万次郎(中浜万次郎)というアメリカ帰りの漁師と一緒に暮らしていた経験がある。その際アメリカ本国の汽車やモールス信号などの様子を聞いて異国の知識を蓄えた。
坂本龍馬は河田小龍のことを知ったきっかけ。
坂本龍馬の身内が河田小龍の塾生でした。
患っていた父の担当医であり、姉の配偶者(義兄)である医師【岡上樹庵】が河田小龍の墨雲洞塾に通っていました。
また当時高知城下の話題は【ハワイやアメリカ本土に行き学校教育まで受けて帰ってきた漁師・ジョン万次郎】のことで持ち切りでした。
それらに関連して河田小龍がジョン万次郎と共同生活を送っていた話も坂本龍馬の耳に入ります。
こうしたことから外国に興味を持つ坂本龍馬はある日、ついに直接河田小龍のもとへ訪れます。
河田小龍は師匠になる。
坂本龍馬が悩んでいた質問に河田小龍はすぐには答えませんでした。
「私は一介の画人にすぎないので何ら君の答えになるものは持ち合わせていない」
と年下の坂本龍馬に対して謙虚な姿勢で臨みます。
しかし坂本龍馬は一歩も引きません。
土佐随一の知識人はついに折れ、自身の理想を坂本龍馬に語り聞かせます。
師匠の話の内容。
河田小龍は自信の長崎で勉学に励んでいたときの話から聞かせます。
さらにジョン万次郎との共同生活で得た西洋の知識、例えばアメリカでは株式会社が流行っていることなどたくさんの話を聞かせます。
そしてそこから組み立てた自分の考えを河田小龍は坂本龍馬に伝えます。
それは以下のような内容でした。
・今の日本の鎖国状態は保てない。
・国中がひとつにまとまり協力して外国勢力に備えなければならない。
・理想を実現するためには国防の備えが必要。
・諸藩の旧式の軍船で西洋の蒸気で動く鋼鉄の軍艦に勝つことは不可能。
・この4つの問題を解決するためには、まずは外国の船を購入し、それを利用した海運業や貿易で利益を蓄え、航海術も習得し、国防強化につなげることが必要である。
若き日の名もない武士であった坂本龍馬はこの土佐藩随一の知識人の考えに目から鱗が落ちました。
そしてこの理想を実現すべく歴史上に名を残す【坂本龍馬】として活動するようになります。
その意味でこの会談は非常に大きな歴史的価値を持っていました。
河田小龍は盟友にもなる
会談以後、坂本龍馬は土佐藩脱藩や勝海舟との出会いなどを経て幕末の動乱の中に身を投じます。
一方で河田小龍は土佐に残り墨雲洞塾で優秀な人材を育て、坂本龍馬の元に送り出します。
(近藤長次郎、長岡謙吉、新宮馬之助、亀谷子久など)
そして坂本龍馬は彼らとともに亀山社中や、海援隊を組織します。
また、河田小龍と坂本龍馬は互いに遠くにいてもしっかりと手紙のやり取りを行っていました。
龍馬が河田小龍に宛てたその手紙には以下のような内容も書かれていました。
「人材を育てることはあなたにまかせます。私はこれから船を獲得することを目標にしてそれに専念します」
坂本龍馬と河田小龍の関係は師匠と弟子であると同時に同じ未来を志す盟友でもありました。
この関係は坂本龍馬が京都で暗殺されるまで継続しました。
参考文献。日本人名大辞典。日本大百科全書。世界大百科事典。国史大辞典。他。
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