途中で【腕試しクイズ】と【清少納言本名クイズ】の2種類のクイズを用意しています。どうぞ最後までお楽しみください。
清少納言という名前はそもそも【本名】じゃないの?
ご存知の通り、清少納言という名前は超有名です。
しかし彼女の本名は清少納言ではありません。
『清少納言』という名称は彼女が女房として宮仕えするようになってからの呼び名です。
ではこの有名人の本名はというと、残念ながら現在も不明です。ただし清少納言の本名は『なぎ子』なのではないか、という説もあります。
この説の由来は以下のようになります。
清少納言の本名は『なぎ子』説。
清少納言の名前が『なぎ子』だという説の根拠は、江戸時代の学者伊勢貞丈・加藤磐斎のどちらかが書いた『清少納言枕草紙抄』に『女房名寄』から引用して『なぎ子』と紹介されていることにあります。
しかしこれだけでは信頼性が低いため『なぎ子』という名前は定説にはなりませんでした。
もし『なぎ子』のことが書かれた資料がこれだけではなく、他にももっと複数冊あれば『なぎ子』説が定説になっていたかもしれません。
もし、この資料が江戸時代ではなく平安時代に成立した書物であれば『なぎ子』説が定説になっていたかもしれません。
しかし現実にはそんなこともなく『なぎ子』説の根拠は希薄であるとして『清少納言』の本名は依然として『不明』であると公式にはされています。
本名が名字のみしかわからないのは少し残念ですが、無理やり清少納言の本名を『なぎ子』だと断定してしまうよりは『不明』のままにしておく方が良いのです。
なぜなら『なぎ子』が実際には清少納言本人とはまったく別人の名前である可能性もあるからです。
もし清少納言とはまったく別人の名前が後世の人に『清少納言』の本名として伝わってしまった場合、清少納言もお墓の下でいと「おかし」ではなく「わろし」と嘆いてしまうでしょう。
後世に生きる私たちも間違った名前を覚えてしまうのは嫌だと感じる人が多いはずです。
だから現在も清少納言の本名は『不明』なのです。
とはいえ名字は判明していて『清原』です。
清少納言は有名人なのに清原以外の『本名』がなぜ記録に残っていないのか。
それではなぜ、有名人であるにも関わらず清少納言の『清原』以外の本名が伝えられていないのでしょうか。
それは当時、つまり平安時代の日本では女性の名前は一般的に『女子』と文献などに記述されてしまうためでした。
それゆえに清少納言のみならず紫式部や和泉式部の本名も後世には伝わらず闇に包まれています。
ですが彼女たちに名前がなかったというわけではありません。平安時代の両親も娘にきちんと名前を授けていました。
それを示す話が平安時代に成立した『竹取物語』に出てきます。
かぐや姫が三室戸斎部の秋田という人によって本名を『なよ竹のかぐや姫』と命名され、それを祝って多くの男性を招いて三日三晩の祝宴が行われたシーンがあります。
平安時代の女性にもきちんと本名は授けられていたのです。
しかし本名が記録として紙に記されないため現代まで伝わっていないのです。
清少納言の正しい名前の呼び方
『清少納言』の『清』の部分が彼女の本名の『名字』を表しています。
清少納言は清原氏の出身なので名字は【清原】でした。
しかし下の名前が分かっていなければ不便です。『清原』という名字の人は当時からたくさんいました。
清少納言の下の名前の本名がはっきりわかっていないと、現代人も平安時代に生きていた人々も清少納言を他の清原さんとを区別することができずに困ってしまいます。
とはいえ、実は、平安時代の人々は清少納言の下の名前の本名を知っていました。
しかし当時の人々は下の名前の本名のことを『諱(いみな)』と呼んでいました。
諱は日常で使えない名前です。
『いみな』を漢字に変換すると『忌み名(いみな)』となるため口に出すことがはばかれていました。
結局平安時代の人々も清少納言のことを下の名前では呼べません。
そこで、平安時代の貴族の人々は女性の名前をニックネームで呼んでいました。(男性のことは主に官位名で呼んでいました)
それが『清少納言』であり『紫式部』です。
清少納言の場合は『清』が名字で『少納言』が下の名前の代わりになるニックネームです。
『清原』あるいは『少納言』どちらか片方では他の清原さんや少納言さんと区別することができません。
だから組み合わせて使われます。
つまり清少納言の正しい呼び方は平安時代でも現代でも『清少納言』なのです。
ただしここで疑問が湧いてきます。
清少納言の下の名前のニックネームをどうして『少納言』に決めたの?
もっと素敵なニックネームを選んでも良かったのでは?
『清少納言』の『少納言』の部分の名前の由来。
『少納言』の名前の由来ですが、これは官職の名前です。
下の名前が使えない状況で中世の日本人貴族たちが代わりに用いていたのは『官職名』です。
しかし話は簡単ではありません。
『清少納言』はこの『少納言』という官職にはついていませんでした。少納言とは男性のつく役職だったからです。清少納言は女性です。
それではなぜ清少納言は『(清)少納言』と呼ばれていたのでしょうか。
それは『少納言』が『宮廷に奉仕する』立場の男性の役職だったからです。
清少納言も『宮廷に奉仕する』立場の人間でしたが、しかし女性にはちょうど良い官職名がありません。
そのため『宮廷に奉仕する』男性の官職名が代用されて彼女は『清少納言』と呼ばれていたのです。
とはいえ『宮廷に奉仕する』男性の官職名は数多く存在します。
数多くある官職名の中から清少納言の呼び名として『少納言』が選ばれた由来は、清少納言に近しい親族に『少納言』の役職についていた男性がいたからだと考えられています。
清少納言の名前の由来。
例えば同じく本名が不明だった紫式部の『式部』は彼女の父の役職名に由来しています。
しかし残念ながら資料が残っていないため、清少納言に近しい男性の『誰が』少納言という役職についていたのかは定かではありません。
清原正高という人物が『少納言』の役職についていたという記録がありますが、この清原正高を清少納言の兄弟とする説としない説、清原正高を実在の人物としない説もあるため断定することができません。
いずれにせよ清少納言の身近な男性の誰かが『少納言』だったようです。
以上のことから清少納言の本名に関しては下の名前も不明で、少納言の正確な由来もあいまいです。
しかし現代人にとってはそれでも十分です。
現代人は清少納言の先祖が『天武天皇』であることを突き止めています。
先祖の全情報が『清少納言』という名前から読み取れる
『清』から清少納言が『清原氏』の出身だったことは前述しましたが、このことから彼女の家柄が判明しています。
清少納言の祖先には偉人や文化人が多数存在しています。
本名がわからない『清少納言』でも、その呼び名からきちんとたくさんの情報を読み取ることができるのです。
先祖1.天武天皇。
清原氏は天武天皇を祖先とする家柄であったことが記録によって判明しています。
すなわち『清少納言』のご先祖様は『天武天皇』でした。
また『清原』の名字は大和(現在の奈良県)の皇居があった場所に由来するとされています。
つまり京都で暮らしていた清少納言ですが、その祖先は奈良で暮らしていました。
また清原氏は和歌に優れた人物を輩出している家柄でもあります。
天武天皇も偉大な歌人で、万葉集に数首の和歌を残しています。
先祖2.深養父。
清少納言の祖先に清原氏の『清原深養父』という名前の人がいました。彼の歌は勅撰和歌集に41首も収録されています。
当時の貴族は誰もが自分の作った和歌を『勅撰和歌集』に載せてもらいたいと考えるほどでした。そんな『勅撰和歌集』に41首も載ったという『深養父』は卓越した和歌の名人でした。
そんな彼は中古歌仙36人にも選ばれ、百人一首にもその歌が選ばれています。
『清原』氏の中でも最高の文学者は『枕草子』を執筆した清少納言本人ですが、『深養父』はそれに次ぐ清原氏の偉大な文学者でした。
ちなみに『深養父』は紀貫之とも親交があったようで、あるとき『深養父』が紀貫之の前で琴を演奏していると、その音色に感動してた紀貫之は和歌を残しました。
以上のことから『深養父』は和歌も琴も優れた人でした。
先祖3.夏野
また『官位』の上でも有名な清原氏の祖先が清少納言にはいます。
『夏野』という名前の人がそうなのですが、彼は右大臣まで昇り詰めています。
彼は42歳で参議となり、43歳で中納言、46歳で権代納言、51歳で右大臣と出世コースを歩んでいきます。
51歳で右大臣まで昇り詰めたのです。
そして夏野は右大臣となった5年後に56歳で亡くなりました。
実父、清原元輔
清少納言の父、元輔も優れた歌詠みで、藤原公任の選んだ三十六人の歌仙のひとりに選ばれています。
また、深養父同様に百人一首にも入撰しています。
以上ことから、例え本名がわかっていなくとも『清少納言』という呼び名の『清』の部分から彼女が偉大な家柄に生まれたことがわかります。ここまで例に挙げた人物たちがその証拠です。しかし残念ながら『少納言』の部分はその家柄が落ちぶれていたことを表しています。
少納言は下級貴族の役職だった。
本名不明の清少納言の呼び名の『少納言』の部分からわかること。
『少納言』という役職は、例えば紫式部の父の『式部』という役職よりも低いものでした。
下級貴族の役職です。
また、清少納言の父、元輔は44歳になってようやく官職につくことができたという人物でした。その後62歳で叙従五位下を賜り河内権守となり、66歳で周防守、73歳で叙従五位上となり、79歳で肥後守となります。
これはあの『夏野』の頃、つまり42歳で参議となり、51歳で右大臣となった祖先『夏野』の頃とは対照的です。
まとめ。それでも凄い『清少納言』
それにも関わらずあれだけの才能を発揮したことが清少納言の偉大さの証左となっています。
才能豊かな祖先も乗り越え、下降線をたどるその家柄にも彼女の文学的才能を邪魔することを許しませんでした。
『枕草子』は傑作です。また、清少納言の和歌は百人一首にも入撰しました。
清少納言は文学的には平安時代の女性の頂点に現在でも紫式部とともに並び立っています。
その本名がわからずとも清少納言は1000年以上も後世にしっかりとその存在を刻んでいるのです。
本名が学生の教科書に小さく載っている歴史上の人物も偉大ですが、本名など関係なしにその『存在』ごと後世に伝えている清少納言はそうした傑物たちをさらに凌駕しているのかもしれません。
参考文献。日本大百科全書。日本人名大辞典。人物叢書清少納言。他。
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