最後に清原深養父クイズも用意しています。どうぞ最後までお楽しみください。
清原深養父とはどんな人?
清原深養父は天武天皇から数えて8代目の子孫です。
清原深養父は今からおよそ1100年以上も前に生きていた人物です。
清原深養父は現代人と比べ、和歌に優れています。また、平安時代に生きていた人たちの中でも和歌が得意で、中古三十六歌仙にも選ばれました。
また清原深養父は百人一首の36番にも選ばれています。
清原深養父の家系は和歌が得意な家系として平安時代から周囲に認められていました。
孫の清原元輔は百人一首の42番に入撰していますし、ひ孫の清少納言も百人一首の62番に入撰しています。
清原氏を和歌に秀でた一族とするためのスタートラインに立っていたのが、まさにこの偉大な清原深養父です。
清原深養父の生涯
正確な生没年の記録は残っていませんが、清原深養父はだいたい8世紀後半に生まれ、9世紀に生きていた人物ということが判明しています。
官位には恵まれず、官位は内蔵大允(従五位下)でした。
清原深養父は和歌だけではなく、琴や笛も得意でした。
百人一首の35番に入撰している紀貫之とも親交があり、その琴の腕前は紀貫之に褒められたほどでした。
清原深養父は下級貴族であったため大臣たちのように政争を繰り広げることもなく、生涯の大半を和歌や琴や笛などの貴族のたしなみの時間に費やしました。
晩年を過ごしたのは京都北部の郊外(洛北)で、そこに補陀落寺を建てて住んでいました。
清原深養父の百人一首
文学的誇張表現や擬人法を用いて月の美しさを引き立てている名歌です。
清原深養父という人の感性を和歌から味わうことができます。
この和歌は百人一首の36番です。
清原深養父の逸話・エピソード
ある夏の晩、清原深養父は親交のあった藤原兼輔と紀貫之と集まっていました。
清原深養父は二人の前で得意の琴の演奏を披露します。
するとその音色の美しさに感動した藤原兼輔と紀貫之はそれぞれ和歌を詠みます。
藤原兼輔は
短か夜の ふけゆくままに 高砂の 峰の松風 吹くかとぞ思ふ
夏の短い夜が更けてゆくにつれて、よりいっそう趣深く響く琴の音を、まるで高砂の峰の松に風が吹きつける音かと聞いています。
と詠んで絶賛します。
また、紀貫之も
あしびきの 山下水は 行き通ひ 琴のねにさへ 流るべらなり
山のふもとを流れる美しい水が、まるで琴の音にのって流れてくるみたいだ。
と清原深養父の琴の音色を山の水に例えて褒めています。
これらのエピソード・逸話から清原深養父の琴の腕は相当なものだったと推し量ることができます。
清原深養父とひ孫の清少納言
清原深養父が百人一首で詠んでいる和歌のテーマは夏の月の美しさでした。
曾祖父と同様に、ひ孫の清少納言も夏の夜の月が大好きでした。
清少納言は『枕草子』の『春はあけぼの』の段で、
「夏は夜。月の頃はさらなり」(夏は夜が趣深い。月が明るい頃は言うまでもなく素晴らしい)
と書いています。
清少納言が曾祖父の残した和歌を読んだことがないと考える方が不自然ですので、清少納言は幼少期から偉大な歌人である曾祖父・清原深養父の残した和歌の影響を受けて育ったと考えられます。
清少納言は清原深養父から遺伝的影響や清原氏の家庭環境的な影響を受けていたと推察できます。
清原氏の中で後世に一番名を残した清少納言はとても素晴らしい人物です。
そんな清少納言の背景には父清原元輔や曾祖父清原深養父の影響がどこかにあり、清少納言と比べるとそれほど有名というわけではありませんが、清原元輔や清原深養父も立派な人物たちでした。
最後にお楽しみクイズをどうぞ
参考文献。日本大百科全書。百科マルチメディア。国史大辞典。日本国語大辞典。他。
夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ
短い夏の夜は、まだ宵のうちだと思っているうちに明けてしまった。月は今頃、雲のどのあたりに宿を取っているのだろうか。
宵=日が暮れてしばらく経った頃。