最後に清原元輔クイズも用意しています。どうぞ最後までお楽しみください。
清原元輔とはどんな人?
清原元輔は平安時代の下級~中級貴族で、主に清少納言の父であることや百人一首の42番に入撰していることなどで知られています。
現在わかっているだけでも息子は3人、娘は2人いました。娘の1人が清少納言です。
清原元輔の祖父は百人一首の36番に入撰していることで有名な清原深養父です。
清原元輔の一生は、亡くなるその日まで仕事についていた苦労人の人生でした。
また、清原元輔は藤原公任の選んだ三十六歌仙の一人であり、後撰和歌集を撰定する梨壺の五人と呼ばれたりと、当時から有名な歌人としての名声を獲得していました。
清原元輔の生涯
清原元輔は西暦908年に生まれます。
記録が残っていないため結婚の正確な時期はわかりません。
しかし長男が西暦945年生まれであるため、清原元輔は遅くとも37歳の時には結婚していたことになります。
清原元輔は44歳で初任官(微官を除く)を果たしているので、若い頃は収入も少なく、そのため結婚が遅くなったのかもしれません。
和歌の名手でもある清原元輔は当然当時の貴族男性として、結婚に際して相手に和歌を送ったと思われますが残念なことにその文献は残っていません。
清原元輔の五人の子供のうち、長男が37歳のときに生まれ、末の清少納言が59歳のときに生まれました。
役職。
44歳の時に河内権少掾に任命されました。この役職は河内国(≒大阪府東部)の国司の等官の一つです。
国司の等官は上から守/介/大掾/少掾/大目/小目とあります。
清原元輔は少掾ですので下から3番目、上から4番目の等官でした。これは官位が従七位上に相当する役職でした。
その後ようやく昇進を開始します。
54歳で小監物(正七位下に相当する)に任命されると、55歳で中堅物(従六位上に相当する)、59歳で大蔵少丞(従六位上に相当する)60歳で民部少丞(従六位上に相当する)に任命されます。
59歳のときに大蔵省から一年で民部省に移ったのは、民部省の方が出世がしやすいので清原元輔が自ら移動の希望を藤原在衡(当時正三位:大納言)に申し出て、藤原在衡が清原元輔を推薦したと考えられています。
清原元輔のこの目論見は当たり、61歳で民部大丞(正六位下に相当する)、62歳で河内権守と順当に出世をしていきました。
66歳で周防守(従五位下に相当する)となり現代で例えると≒山口県知事にのような立場で周防国に赴任しました。
京都から周防まで瀬戸内海を渡って行くのですが、このとき9歳の娘の清少納言も同行したと考えられています。
周防時代には周防の造薬師寺の廊の造営を行ったり、鋳銭長官も務めました
清原元輔は4年後任期を終えて京都に帰ります。
そして73歳で官位は従五位上に上がります。
その後79歳で肥後守となり肥後(熊本県)に赴任します。そして最後は83歳で肥後の地でこの世を去りました。5年の任期が終わる約半年前のことでした。
当時としてはかなりの高齢で天寿を全うしました。清原元輔は遅咲きの出世で大臣などにはなれなかったため、後世には官位ではなくその和歌の素晴らしさで名を残しました。
清原元輔の百人一首
契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは
私たちは固く約束しましたよね。お互いに涙で濡れた袖を絞りながら、末の松山を波がこすことがないように、二人の愛は不変のものにしましょうと。
清原元輔は百人一首の42番に入撰していて、本歌取りの技法を用いた巧みな和歌になっています。
さすがは藤原公任が選んだ三十六歌仙の一人という仕上がりの和歌です。
清原元輔の逸話・エピソード
『今昔物語集』の中に清原元輔に関する説話があります。
賀茂祭の行われていた京都で、賀茂祭の使として清原元輔は馬に乗り一条大路を通行していた。しかし馬がつまずいたため清原元輔は路上に転倒してしまう。
起き上がった清原元輔は被っていた冠を落としてしまっていた。
清原元輔の禿げ頭がさらされる。頭に夕日がさして見苦しい様子であったため見物人はみんな大笑いした。
すると清原元輔は真面目な顔で見物人たちに、今まで馬から落ちて冠を落とした人々の例をあげて一々説教して回った。
普通なら恥ずかしくてそんな行動をとるものではないが、この清原元輔の説教して回るという行動は面白くて余計に人々を笑わせた。
清原元輔がなかなか愉快な人物であった逸話としてこのエピソードが残っています。
清少納言と父の清原元輔
清少納言は枕草子で「(私が下手な和歌を詠んで)父の名声を汚してはいけないから」と和歌を詠む際に父を気遣う様子を見せています。
また、清少納言の仕えていた中宮定子も清原元輔と清少納言の親子関係、清原元輔が和歌の名人であることを認識していたようです。
さらにライバルといわれることもある紫式部も清原元輔を高名な歌詠みと認めていました。
また、父である清原元輔が百人一首の42番に入撰しているのに対して、娘の清少納言は百人一首の62番に入撰しています。
清原元輔と息子たち
清原元輔には三人の息子たちがいました。
長男は清原為成で雅楽頭(従五位上に相当する)を務め、80歳で亡くなるまで長生きしました。
生年不明の二人の息子のうちの一人は清原致信で、大宰少監(従六位上に相当する)を務めました。清原致信は晩年の清少納言とともに暮らしていたという話もあります。
しかし清原致信は源頼親の配下の兵士に襲われて1017年に殺害されてしまいます。これは清原元輔の死後で、清少納言が52歳の頃の出来事でした。
清原致信が殺害された原因は、清原致信の主である藤原保昌と政敵である源頼親との争いの影響だとされています。
もう一人の生年不明の息子は戒秀です。戒秀は比叡山延暦寺の僧で殿上法師として花山院に仕えていました。また、和歌詠みとしても活躍していて拾遺和歌集と詞歌和歌集に各一首ずつ和歌を残しています。
戒秀は1015年に落雷に遭い亡くなってしまいます。清原元輔の死後で、清少納言が50歳の頃の出来事でした。
清原元輔には清少納言以外に娘がもう一人いました。本名をはじめ彼女の記録はあまり多く残されていませんが藤原理能と結婚して妻となったことは判明しています。また少なくとも3人の子供、藤原為義/藤原為季/藤原為裕を出産しています。
生没年は不明ですが、清少納言のこの姉は清少納言より相当年上だったようです。
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参考文献。日本大百科全書。日本国語大辞典。国史大辞典。日本人名大辞典。他。
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