【れふかん】は歴史のエンタメ性も重視したブログです。
途中で【腕試しクイズ】も用意しています。
中川清秀とは?
中川清秀は摂津の戦国武将です。
父も母も武家の人間だったので、出身身分は元々【武士】でした。
中川清秀は、最初は摂津の一介の武将にすぎませんでしたが、織田信長や豊臣秀吉の元で活躍したことにより最大で12万石を有する戦国大名へと出世しました。
中川清秀と池田勝正
中川清秀が元服して最初に仕えたのは摂津の池田家でした。
主君の池田勝正は当初、三好三人衆と手を組んで織田信長と戦いましたが、やがて信長の配下へと下りました。
その後、1569年に京都(下京)で本圀寺の変(第十五代将軍足利義昭が三好三人衆の軍勢に襲撃される)が発生すると、中川清秀は主君の池田勝正の命令を受けて将軍の救援に向かいます。
この時27歳だった中川清秀は明智光秀を援護して三好三人衆と戦いました。
しかし敗北します。といっても、リベンジの機会はすぐに訪れます。
敗戦の翌朝、中川清秀は三好三人衆の軍勢に奇襲をしかけて成功します。
これが歴史に記録された中川清秀の最初の大きな武功となりました。
この年、主君の池田勝正が足利義昭が任命した【摂津三守護】の一人に選ばれました。
主君・池田勝正の追放
しかし翌年、池田勝正は居城である池田城から追放されます。中川清秀が28歳の時の出来事でした。
追放された直接の原因は池田家の一族争いです。
甥の池田知正が織田信長と敵対し、三好三人衆と手を結び、池田家当主の座を乗っ取ったのです。
ですが、この裏には池田家家臣の荒木村重や中川清秀がいたという疑惑がささやかれています。
以降、池田家は荒木村重が実質的に家中をまとめあげることになります。
荒木村重が池田家を牛耳ったため、中川清秀は実質的に荒木村重に仕えることになりました。
なお、形式上の池田家の新君主である池田知正と、荒木村重は、2年後に織田信長の配下の摂津の武将である【和田惟政】を攻めます。
ここでも中川清秀は活躍を見せました。
中川清秀と和田惟政
1572年、和田惟政の首を中川清秀が自らの手で討ち取ったという逸話が残されています。
対戦相手だった和田惟政という人物は、前の主君の池田勝正と同様に【摂津三守護】の一人でした。
織田信長と足利義昭に仕えた和田惟政は猛将としても知られ、戦死するまでに多くの銃創や刀傷を受けながらも戦い続け、多くの敵兵を死傷させました。
戦場における和田惟政と仲間の茨木重親の軍勢は約500名で、中川清秀と荒木村重の軍は約2500名でした。
この戦いは結局は前述の通り敵の大将である和田惟政を中川清秀が討ち取って勝利に終わります。
敵の副将である茨木重親も荒木村重に直接討ち取られるのですが、この茨木重親の居城であった茨木城が、以後中川清秀の居城となります。
この戦いは白井河原の戦いと呼ばれていて、中川清秀が和田惟政の首を討ち取ったとされる短刀が大阪府茨木市の新屋坐天照御魂神社に奉納されています。
なお、余談になりますが、この戦い(白井河原の戦い)には斎藤道三の息子の長井道利も参加していました。
斎藤家が織田信長に滅ぼされたあと、長井道利は足利家に仕えて、足利幕臣の和田惟政の救援に来ていました。しかしこの戦いに敗れて斎藤道三の息子も討死しました。
また、中川清秀と荒木村重の軍は、和田家家臣だった清秀の従兄の高山右近の居城である高槻城も容赦なく攻めました。城下町も二日かけてすべて焼き払いました。
一方で、織田信長・足利義昭の立場から見ると、摂津の地の重要な協力者で三守護の一人の和田惟政を失った以上、連敗を喫するわけにはいけません。
そこで停戦を主張する織田信長の使者として佐久間信盛が戦場まで訪れます。
しかし荒木・中川の両将は無視して戦闘を継続します。
すると今度は織田信長配下の明智光秀が1000騎の兵を引き連れて停戦を主導するためにやってきます。
これにより荒木村重と中川清秀の軍はようやく撤退しました。
明智光秀と中川清秀はかつて共闘した仲ではありましたが、それにしても明智光秀の交渉事における能力の高さがうかがえます。
なお、和田惟政の息子は1年後に中川清秀の従兄である高山右近が追放しています。
中川清秀と荒木村重
織田信長の配下の和田惟政と激闘を繰り広げた荒木村重・中川清秀でしたが、結局は織田信長の配下へと下ります。
織田信長と戦うことには負けた場合のデメリットがある一方で、織田信長の味方になれば摂津の領土が保証されるというメリットがありました。
加えて、勝ち馬に乗ればされに領土を拡大できるかもしれませんでした。
こうして荒木村重は織田信長から摂津国全体の領有権を認められます。
信長のお墨付きを得た荒木村重は形式上の自分の主君である池田知正を追放しました。
中川清秀は荒木村重の下につきましたが、この荒木村重は織田信長により正式に摂津の領有を認められました。
のちには、追放された池田知正が織田信長の命令で荒木村重の配下武将となるという出来事までありました。
絶好調の荒木村重を右腕として支える中川清秀にもまた、順風満帆な未来が待ち受けているかのようにみえました。
ところが、唐突に荒木村重が織田信長を裏切りました。
荒木村重
荒木村重が織田信長を裏切った原因は諸説あり、確定されていません。
中には中川清秀が信長の敵である石山本願寺に兵糧を横流ししていた。このことが発覚してしまったから、という説まであります。
有力なのは荒木村重自身が信長の敵である石山本願寺や足利義昭と親しかったからという説です。
いずれにしても荒木村重が織田信長を裏切ったという事実がありました。
織田信長は荒木村重を重用していました。
信長は大事な家臣が裏切ったので慌てて明智光秀ら数名の家臣を使者として送ります。
使者が荒木村重に告げた内容は「考え直してもう一度信長の味方になれ」というものでした。
荒木村重も再考し、安土城の織田信長に釈明を行いに出発します。
中川清秀
荒木村重は、安土城に向かう途中で中川清秀の居城の茨木城に立ち寄ります。
ここで中川清秀が見方によれば【最低の男】になります。
荒木村重に対して「信長は一度裏切った相手は二度と信用しない人物だ、あなたはいずれ滅ぼされることになるでしょう」
と裏切りを勧めたのです。
この結果荒木村重は謀反を決心して安土城行きを取りやめます。
すると荒木村重の有岡城は信長軍に包囲され、戦況は不利になります。
こうした状況で中川清秀は主君の荒木村重を裏切って織田信長に降伏し、今度は信長の家臣として荒木村重の有岡城を攻めることになります。
この時の逸話が残っています。
・逸話
武名で名高い中川清秀を家臣に欲した織田信長が清秀の妹婿の古田重然を通じて12万石の所領と自身の娘の鶴姫を清秀の嫡男・秀政に嫁がせるという破格の条件で寝返りを工作を行った。
清秀は返事をせずに、村重にありのままを伝えた。
荒木村重は敗戦が濃厚な状況で長年右腕として活躍してくれた清秀を従わせる訳にはいかないと「荒木の武運は決し、多くの者が離反した。中川殿もすぐに織田に付かれよ」と伝えた。
この結果、中川清秀は信長に降伏して味方についた。
荒木村重と中川清秀の関係において、最悪とされるのが、主君に裏切りをそそのかしておいて、自分は織田信長に味方した中川清秀の行いです。
それなら初めから村重の安土城行きを止めるな! と言いたくなるような、まさに【戦国乱世】の中の出来事でした。
一方で、この事件で美談とされるのは、中川清秀が相談なしに荒木村重を裏切らなかった点と、相談を受けた上で村重が中川清秀の裏切りを許した点です。
なお、余談ながら荒木村重は本能寺の変のあとも生きながらえており、天寿をまっとうしています。
中川清秀と織田信長
播磨や丹波の戦況で行き詰っていた織田信長は、中川清秀の投降に歓喜します。
一般的に辛い時期に起きた嬉しい出来事は、人間を大きく喜ばせるものです。
織田信長は約束通りに、のちに自分の娘の鶴姫を中川清秀の嫡男の中川秀政の正室として嫁がせました。(鶴姫は子供に恵まれず早世します)
また、織田信長は中川清秀に黄金30枚を与えます。
中川清秀が黄金などの礼と挨拶のために直接織田信長に謁見した際には、信長自らが太刀を与えたのみならず、嫡男の織田信忠などの織田家の一門衆から中川清秀への太刀などの贈り物が山と積まれました。
このことから、織田信長の中川清秀に対する評価が高かったことがうかがい知れます。
一説では、中川清秀が配下に加わったことで、朝廷に働きかけていた石山本願寺や毛利家との停戦・講和の斡旋依頼も中止したようです。心強い中川清秀がいれば戦うことができるという判断でした。
中川清秀と豊臣秀吉(羽柴秀吉)
豊臣秀吉(羽柴秀吉)も中川清秀を高く評価していました。
自分が高く評価した人物と親しくなろうとするのが「人たらし」と言われる豊臣秀吉のやり方です。
1580年、秀吉が「今後中川清秀殿とは兄弟の契りを結ぶ」という手紙を送っています。
この時秀吉が43歳、清秀が38歳でした。
秀吉は同様に浅野長政とも義兄弟の契りを結んでいますし、黒田官兵衛に対しても弟の秀長同様に思っていると手紙を送っています。
割と誰とでも義兄弟になる豊臣秀吉でしたが、それでも、中川清秀はあの秀吉が良好な関係を保っておきたいと考えるほどの人物でした。
本能寺の変
1582年、明智光秀の謀反により本能寺の変が勃発します。
この時中川清秀は摂津で中国出陣の態勢を整えていました。
中国出陣は取りやめにして、清秀は悩みます。
地理的に近い京都の明智光秀の味方をするか、それとも明智光秀を倒そうと考える他の大物武将の味方をするべきか。
そんな折、実際に明智光秀からのラブコールが真っ先に清秀の元に届きます。光秀は関係の良かった清秀が自分に味方することをかなり期待していたようでした。
迷った中川清秀は情報収集のために秀吉に書状を送ります。するとまんまと秀吉に騙されてしまいます。
返書で秀吉は「信長様も信忠殿も危険を逃れて生きている。自分は光秀を倒すために今、東に向かっているところなので、中川清秀殿も信長様に協力するように」と告げました。
清秀はこの嘘の情報に基づいて判断を下します。
そして秀吉と光秀の決戦、山崎の戦いでその武勇を見せつけました。
清秀は3000名の兵を率いて参戦し、重要な局面の天王山の占領では兵600を派遣してしっかりと秀吉軍の戦力となりました。
また、明智方の松田政近に攻められた際は鉄砲隊で迎撃して戦場で存在感を示します。
さらに斎藤利光と伊勢貞興の軍とも戦い、奮戦して敵将の貞興を戦死させました。
中川清秀の活躍もあり、豊臣軍は無事に勝利を収めます。
敗れた明智軍は敗走しますが、疲弊していた中川軍は、追撃戦は他の部隊に任せざるを得ませんでした。
それでも中川清秀の活躍ぶりは戦場にいた武将に認められており、織田信長の三男の織田信孝は「中川清秀殿のおかげで、父の仇である光秀を打ち果たすことができた」と謝意を述べています。
一方で秀吉は清秀に対して馬上から「骨折り、骨折り」
と偉そうな態度で話しかけます。
「骨折り」の意味自体は「精を出して働くこと」なので、秀吉も清秀の活躍を認めていたのですが、その態度が義兄弟に対するものではありませんでした。
秀吉が「ご苦労」と偉そうに労いの言葉を残して去ると、怒った清秀が後ろ姿に向けて「筑前(秀吉)は早くも天下人になったつもりか!」と怒鳴りました。しかし秀吉は無視しました。
秀吉の中では既に中川清秀は対等な同僚ではなく、自分の配下武将となっていました。
そんな秀吉ですが、まだ柴田勝家という強敵が天下取りの障害として残っていました。
中川清秀の最後。賤ケ岳の戦い
豊臣秀吉と柴田勝家は対立し、ついに決戦となる賤ケ岳の戦いが勃発します。
この戦いで中川清秀は命を落としました。
秀吉の味方についた清秀は、秀吉軍の先鋒として大岩山砦に陣取りました。
しかし早朝に柴田軍の副将の佐久間盛政の率いる軍が突然南下を開始します。
中川清秀は兵力差で圧倒的に劣っていました。
味方の高山右近は撤退を進言しますが、中川清秀はこれを退けて戦うことを決意します。
その戦力差は1千人対1万人だったとも、3千人対6千人だったともいわれていますが、いずれにせよ圧倒的に不利な戦況でした。
高山右近は中川清秀を支援せずに撤退した説と、奮戦ののちに撤退した説の2説がありますが、いずれにせよ戦場からは離脱しました。
一方で中川清秀は圧倒的戦力差と歴戦の勇将である佐久間盛政の前に敗れて戦死を遂げました。
享年42歳でした。
中川清秀の墓
中川清秀の墓は現在の滋賀県長浜市に残されています。
中川清秀の子孫
賤ケ岳の戦いにおける中川清秀の戦功は認められ、中川家の家督を継いだ嫡男の中川秀政は秀吉から13万石の領有を認められました。
しかし秀政は朝鮮出兵の折にドジを踏み、悠長に鷹狩りをしているところを敵兵に襲われて戦死しました。
この家の恥を中川家が隠して秀吉に報告しなかったため、事の次第を知った秀吉が怒り播磨6万石に減封されます。この家督は中川清秀の次男の秀成が継ぎました。
以後、秀成は関ケ原の戦いや大坂の陣で徳川方に味方したため、中川家は豊後の岡藩6万6000石として幕末まで存続しました。
なおこの秀成は、父の中川清秀の仇である佐久間盛政の娘の虎姫と結婚しています。
これは秀吉の命令で、虎姫を新庄直頼の養女にしたのち、秀成の正室として迎え入れたものでした。
中川秀成は虎姫との間に7人の子供をもうけ、その中の嫡男の中川久盛は岡藩の2代目藩主となりました。
そしてこの岡藩は幕末まで無事に存続しました。
参考文献。日本大百科全書。世界大百科事典。日本国語大辞典。国史大辞典。日本人名大辞典。日本大百科全書。他、図書館の多数の書籍。
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