最後に清少納言の生没年クイズも用意しています。どうぞ最後までお楽しみください。
清少納言の生まれた年。
清少納言の生まれた年には4つの説があります。
なぜ清少納言の生まれ年に4つもの説が存在するのかというと、清少納言の生まれた年が明確に分かる文献が残されていないからです。
そのため生まれた年は【不明】とするのが正しいのかもしれません。
しかしそれでは思考停止になってしまいます。残された手がかりとなる文献から清少納言の生まれ年を推理することは可能です。
こうして高名な学者(先生)たちによって推理された4つの説がそれぞれ西暦956生まれ説、西暦963年生まれ説、西暦966年生まれ説、西暦970年生まれ説です。
この4つの説の中で最有力なのが西暦966年生まれ説です。
とはいえいずれの説をとっても清少納言が今から約1000年以上前に実在した人物であることに変わりありません。
それを前提に、この先で4つの説の根拠をそれぞれ見ていきましょう
清少納言の956年生まれ説の根拠。
この説は1885年生まれの京都帝国大学文学博士であり東京帝国大学史科編集所員の桜井秀博士が唱えた説です。
この説は清少納言の夫を藤原理能と仮定することで成り立っています。
夫の藤原理能の生年から考えて清少納言の生年も956年あたりが適当だろうというものです。
しかし現在では藤原理能は清少納言の夫ではないとされているため、根拠が消えたためこの説も有力なものではなくなっています。
清少納言の963年生まれ説の根拠。
この説は1625年生まれの江戸時代の歌人で学者の北村季吟が唱えた説です。
この説は『枕草子』の『宮にはじめてまゐりたるころ』を根拠にしています。
この段からは清少納言が女房達の中でも年長者であることが伝わってきます。
北村季吟はそこから、ではこの場面の清少納言はきっと30歳を過ぎたぐらいだろうと推理しています。
清少納言が初めて宮仕えしたのは西暦993年だとすると(諸説あり)、この時30歳であるならば、出生はその30年前の西暦963年ということになります。
根拠に対して少し強引な推理になっていますが、清少納言の生まれた年を明確に示す文献が残っていないためこのような仮説になっています。
清少納言の970年生まれ説の根拠。
この説は1875年生まれの、東京帝国大学文科大学を主席で卒業した国文学者で、夏目漱石の弟子でもある坂元雪鳥が唱えた説です。
これは清少納言と交流のあった藤原斉信(西暦967年生まれ)や藤原行成(西暦972年生まれ)の生まれた年を根拠に、清少納言は西暦970年生まれだと推測したものです。
この説はしかし、清少納言の夫が橘則光であることを根拠に清少納言を966年生まれとする最有力の説と競合しています。
清少納言の966年生まれ説の根拠。
この説は1908年生まれで2002年に亡くなった岸上慎二日本大学名誉教授の唱えた説で最有力の説とされています。
しかしそれでもこの清少納言966年生まれ説が絶対に正しいと言い切ることはできません。あくまで最有力な説であって、絶対的な説ではありません。
この説の根拠は清少納言の夫、橘則光が965年生まれなので、清少納言を一つ若い966年生まれだと仮定するところから始まります。
すると清少納言は父の清原元輔が59歳の時に生まれたときの子供ということになります。
そして清原元輔は67歳のときに周防守として周防(山口県)に赴任しているので、清少納言はこのとき数え年で9歳です。
父と一緒に下向したと考えると清少納言は数え年で9歳のときに京都を離れて山口県に下ったということになります。そして4年後の13歳のときに再び父と一緒に京都に帰ったことになります。
これは清原元輔が周防時代に詠んだ和歌に子供が出ててきていると解釈できること(和歌中の姫松という単語=清少納言)を根拠にできます。
つまりこの説は清少納言の夫の年齢と、清少納言の父の年齢と周防に下った記録から辻褄を合わせた説になります。
清少納言の生没年とまとめ。
この最有力の説では清少納言は数え年で60歳で亡くなると仮定しているので没年は1025年になります。
つまり清少納言の生没年は西暦966年生まれ、西暦1025年没ということになります。
清少納言の生没年に関しては、これから新しい未発見の資料が出てくると真相が判明するかもしれません。とはいえその可能性はあまり高いとは言えません。
最後にお楽しみクイズをどうぞ
参考文献。日本大百科全書。国史大辞典。日本人名大辞典。人物叢書清少納言。他。
歴史エンタメ【動画】