当ブログ【れふかん】では歴史のエンタメ性を重視しています。
途中で『腕試しクイズ』も用意しているのでぜひお楽しみください。
萱津の戦い(かやづのたたかい)が始まるまで
萱津の戦いは織田信長の家督相続後の2戦目となります。
(1戦目は赤塚の戦い)(2戦目が萱津の戦い)(3戦目は安食の戦い)です。
1戦目は春でしたが2戦目は4か月後の真夏の8月でした。
この2か月前に織田信長は誕生日を迎えて20歳になっていました。
尾張国内が不安定で織田信長は苦労する。
20歳の織田信長は今までうつけと呼ばれていたこともあり周囲から見くびられている節がありました。
父、織田信秀の頃には尾張守護・守護代・実力者がいる清洲城の勢力も織田信秀に対して比較的おとなしくしていました。
ところが織田信秀が病死して織田信長が織田家の家督を継ぐと、清洲城の勢力は織田信長に敵対します。
この清洲城の勢力ですが、尾張守護の斯波義統の力はかなり弱く、守護代の織田信友の力も強くなく、守護代の家臣の坂井大膳が清洲城内で一番の実力者でした。
ちなみに清洲三奉行の血筋である織田信長も形式上は守護代の織田信友の家臣と言えなくもありません。つまり坂井大膳と似たような血筋です。
しかし戦国乱世は実力の世界です。実力がなければ尾張守護も守護代もただの飾りにすぎません。
織田信長の清洲城の最大のライバルは坂井大膳でした。
萱津の戦い(かやづのたたかい)とは?
この坂井大膳には、坂井甚介・河尻与一・織田三位という団結している3人の仲間がいました。
この3人も形式上は尾張守護代の織田信友の家臣ですが、坂井大膳と同様に実力は主君の織田信友よりも上でした。
織田信長と敵対することを決めた坂井大膳は3人の仲間とともに織田信長傘下の城を攻めます。
ターゲットにされたのが松葉城と深田城の二城です。
松葉城主だった織田伊賀守と深田城主だった織田信次が相次いで捕虜にされてしまします。
織田信長は坂井大膳をこのまま許すわけにはいきません。
居城の那古野城から早朝に出陣します。そして途中で援軍の織田信光(叔父)と合流しました。
ここで兵を松葉城(奪われた城)方面、深田城(奪われた城)方面、清洲城(敵本拠地)方面の三つの部隊に分けます。
織田信長は叔父とともに清洲城方面へ向かう主力部隊を率いて進軍しました。
庄内川を超え、清洲城の南方4キロメートルほどの地点に到着します。
すると清洲城から迎撃部隊が出てきました。
両軍は午前8時頃に萱津の原で武力衝突します。これが萱津の戦いです。
萱津の戦いでは柴田勝家が大いに活躍
戦いは織田信長軍の優勢で進められ、敵を50騎ほど打ち取って戦力を削ります。
特に柴田勝家が奮戦し中条家忠とともに敵将の坂井甚介(坂井大膳の仲間)を打ち取りました。
将を失った坂井甚介軍はもろく、敗走しました。
こうして織田信長が指揮した戦いで初勝利を飾ることになりました。
20歳の青年がうつけではないことが証明されました。
余談
活躍した柴田勝家ですが、この頃の柴田勝家は織田信長の直属の家臣ではなく、織田信長の弟の織田信勝の家臣でした。
また、この戦いで前田利家は初陣を飾ります。
目立った戦功は挙げていませんが、初陣の若武者でありながら敵と戦い、そして戦場で生き残ることができました。
萱津の戦いの締めくくり
織田信長が編成した別動隊も奪われた城を奪還すべく優位に戦いを進めていました。
午前8時頃から始まった松葉城方面の戦いでは敵を城の外郭辺りまで追い詰めました。
それでも攻撃の手は緩めず、追い詰めた後は刀槍ではなく弓矢を用います。
矢を射続けているうちに敵はバタバタと倒れ、劣勢にたまらず城内に退却していきました。
こうして正午頃には城の外郭も無人となりました。
あと一押しで落城させることができる、というところで萱津の戦いで勝利した織田信長の本隊から援軍が到着します。
すると敵は絶望して城を捨てて逃げ出しました。
もう一方の深田城方面の戦いではもっと早くに敵を撃破していて、敵を30騎ほど打ち取って追い詰めていました。
敗北した敵は早々に深田城内に立てこもります。
そこへ萱津の戦いを終えた織田信長の部隊が増援として来ると、こちらも城を捨てて逃げ出しました。
松葉城、深田城の両城から逃げ出した敵は清洲城に向かいました。
織田信長軍は清洲城に逃げる敵を追撃してさらに打撃を与えます。
とはいえ、さすがに守護・守護代がいて造りも支城より頑丈な清洲城に攻め込むことはできません。
代わりに敵軍を煽るように清洲城周辺の田畑を荒らしました。そして堂々と引き揚げます
こうして坂井大膳との萱津の戦いは織田信長の勝利で終わりました。
ただ、この先も清洲城の勢力の反抗は続くことになります。
参考文献。信長公記。織田信長合戦全録。他
歴史エンタメ【動画】