【詳しい】織田信長の兄。織田信広と織田信長の関係は兄弟ならではだった。

兄 織田信長
れふかん編集委員
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当ブログ【れふかん】では歴史のエンタメ性を重視しています。

途中で『腕試しクイズ』も用意しているのでぜひお楽しみください。

織田信広。兄とは認められていない信長の兄。

武将データ

名前:織田信広

誕生:不明。

続柄:庶兄(信秀の庶子の長男。嫡男の信長より年長だが、側室の子であるため信長の兄とは認められず、織田家の一門扱い)

母:側室(名前、出自ともに不明)

性格:頑張り屋

結婚:既婚。娘がひとり、丹羽長秀に嫁いでいる。

失敗:信長に謀反を起こしたこと。

戦歴:信長軍との小競り合い、比叡山焼き討ち。長島の一向一揆攻め。

死因:戦死

織田信広は側室の子だった。だから織田信長>織田信広

織田信広の母は側室でその出自はわかっていません。

正室でなく側室だったことから母の身分は低かったと推定されています。

身分
身分

織田信広は父の織田信秀の初めての子供でした。つまり織田信広は【織田信長】より年長でした。

普通なら織田信広が兄で織田信長がその弟となります。

しかし織田信広は織田信長の兄であるとは認められていませんでした。

正室の子である信長が父信秀の嫡男(長男)で、側室の子である信広の扱いは庶兄。織田家の一門。それ以上でもそれ以下でもないという扱いでした。

単純化すると、織田信長の方が織田信広より偉いとされていました。

織田信広は母が側室であったためにこの世に生まれた時点から信長(弟)>信広(兄)の関係がはっきりと定められていたのです。

この関係は、それこそ、父信秀の死後に自分の力で信長を倒すなどしない限り、永久に覆ることのないものでした。

庶子であるためか、残された文献上の扱いも雑であり、織田信広自身が生まれた年なども記録に残っていません。そのため、いったい信長より何歳ほど年上だったのかも正確にはわかっていません。

ただ大雑把に織田信長より十歳前後年上だとされています。

織田信長のお兄ちゃんは若い頃から頑張ってた。

織田信広は父とともに戦場を駆けていました。

織田信広は側室の子とはいえ父の織田信秀からはある程度信頼されていました。そのため若い頃から度々戦場で重要な役目を任されてきます。

戦い
戦い

例えばこんな話があります。

織田信広の父、織田信秀は当時尾張(愛知県西部)を支配していました。

尾張 美濃 三河 地図
尾張 美濃 三河 地図

そうした情勢で尾張のお隣、三河(愛知県東部)の支配者である松平清康(家康の祖父)が部下に殺されました。

すると父の信秀は

【松平清康が死んだ。三河の松平家は弱体化した。これは領土を広げるチャンスだ】

とばかりに東から軍を三河に侵入させます。

その際に『織田信広』も一軍を率いました。

少年の織田信長が安全地域で自由に過ごし、『うつけ』と呼ばれるような振る舞いをしていたその頃にお兄ちゃんは隣の国に父と一緒に出陣していたということです。

ただし織田信広が華々しい戦果を挙げていたというわけではありません。

織田信秀・信広父子はすんなり三河の松平家の領地を奪えませんでした。強敵がいたからです。

忌々しい今川家。

三河をすんなり平定できなかった原因。

それは三河(愛知県東部)に勢力を伸ばそうとしたのは織田家だけではなかったからです。

当時もう一方のお隣の遠江(とおとうみ:静岡県西部)からも松平家を配下にしようと今川義元の今川家が西進していました。

今川
今川

ダブルブッキングの結果、松平家は今川家に服属します。

松平家は長年の宿敵の織田家に屈するくらいなら今川の下僕となってでも織田家と戦うことを選択したのです。

ここで【織田家】VS【松平家&今川家】の戦いが起こります。

織田信秀と織田信広父子の戦い。

戦いの序盤は織田家が優勢でした。しかし結局伏兵たちの横撃に遭って織田軍は敗走します。

父の信秀は本拠地の尾張まで戻り、息子の信広に三河の安祥城(あんじょうじょう)を守るように命令します。一城を預けられるほどに織田信広は父から信頼されていました。

奮戦するも今川義元の軍に敗北

しかし安祥城は攻め落とされ、織田信広は捕虜にされてしまいます。

この際に織田信広はあっけなく敗北したのではなく、松平・今川連合軍2万を相手に奮戦しました。戦闘の中で敵の武将の本田忠高を打ち取って敵軍を一時退却させたこともありました。

しかしこの勝利も初めから不利だった流れを挽回するまでにはいたらず、信広は生け捕りにされてしまいます。

この際に信広は、戦国時代でお馴染みの落城とともに『切腹』する、ということはしませんでした。

切腹
切腹

そして『生け捕り』にされます。

嫡男だったら死んでいたかもしれない織田信広。

敵(松平氏・今川氏)は極めて打算的でした。

打算
打算

捕虜『織田信広』を殺すよりも生かした方が『得』だと松平・今川方は判断しました。

生かしておけば後で利用価値があるというのがその根拠です。

もし織田信広が織田家の嫡男ならば『殺した方が敵にダメージを与えられるから得だ』と松平・今川に判断されたかもしれません。

しかし織田信広は庶子だったため、長男であるにも関わらず織田家の家中での扱いは長男ではありません。信広がひとり死んだところで当主の信秀や織田家全体にはダメージがないと判断されたのでした。

とはいえ捕虜にされて良い気分なわけがなく、このとき織田信広は相当な屈辱感を味わったようです。

徳川家康の価値=織田信広の価値(当時)

父に見捨てられなかった織田信広。

当時三河の松平家の嫡男で元服前の少年の竹千代(のちの徳川家康)は誘拐されて織田家の人質になっていました。

そこで『織田信広』と『竹千代』の人質交換が行われることになります。

交換
交換

織田家にとっても竹千代の利用価値はあるので織田信広を見捨ててしまえば人質の竹千代を手元に残すことができました。

しかし織田信秀は庶子であるにも関わらず信広を見捨てませんでした。

こうして人質交換のおかげで織田信広は無事に尾張に帰還することができました。

このことは庶子であるにも関わらず信広が父からそれなりの愛情を受けていたことを意味します。

しかし織田家の後継者に関しては話は別でした。正室の子供が嫡男という方針は変わりませんでした。

織田信長が家督を相続。その後の兄の織田信広の行動。

織田家の当主の織田信秀の死後、家督は嫡男の織田信長が予定通り継承しました。

継承
継承

それからしばらくの間は織田信広は兄として弟の信長のことを支えていました。

例えば信長が兵を率いて合戦に出陣する際には居城(清洲城)を留守にしなければなりません。

信広はそのたびに信長のために代わりにその居城(清洲城)に兵を率いて入り留守番役をしていました。

そのおかげかどうかはわかりませんが、信長の出陣中に清洲城が攻め落とされることはただの一度もありませんでした。

織田信広の謀反!

 しかし1556年、織田信広が織田信長に謀反を起こしました。

 1556年といえば父の信秀の死後5年後で、この年はちょうど信長の弟の織田信勝も織田信長に対して1度目の謀反を起こした年です。

信勝の謀反は1556年の8月で、信広の謀反は1556年の1~12月のどの時期だったのかは不明です。

いずれにせよ、1556年は織田信長(当時信長23歳)にとって弟と兄から裏切られた大変な年でした。

裏切り
裏切り

さて、謀反を起こした織田信広ですが、彼は事前に弟の織田信長に対抗するために美濃(岐阜県南部)の斎藤義龍と組んで謀反の計画を練っていました。

謀反のためには計画が大切。無計画ではダメだと織田信広は知っていた。

織田家の尾張は愛知県西部に位置していますから、美濃(岐阜)から見るとちょうど真南に位置します。

尾張 美濃 三河 地図
尾張 美濃 三河 地図

美濃の大名、斎藤義龍は南下して勢力を尾張まで拡張したいですし、織田信広は信長から織田家の家督を奪いたかったので協力するにあたり両者の利害は一致していました。

そこで両者は以下のような完璧な計画を立てました。

1,織田信長を清洲城からおびき出すために、斎藤義龍が美濃から南下して尾張を攻める。

2,織田信長は、斎藤義龍軍から尾張を防衛するために清洲城から出陣する。

3,織田信広がいつものように兵を率いて留守番係(後詰め)として清洲城に入場する。

4,そのまま織田信広が清洲城を乗っ取る。

5,作戦成功をのろし(煙の合図)で斎藤義龍に伝える。

6,帰る場所のなくなった織田信長を織田信広と斎藤義龍の両軍で挟み撃ちにする。

7,織田信広と斎藤義龍の完全勝利に終わる。(予定)

しかし計画は全て織田信長に露見していた。

1556年、計画通りに美濃の斎藤義龍が軍を率いて尾張に向けて南下してきます。

これに対して織田信長は兵を率いて清洲城から出陣し、迎撃に向かいます。

出陣
出陣

さっそく織田信広は信長不在の清洲城にいつものように軍を率いて留守番係(後詰め)に向かいます。もちろん表向きは留守の弟のために城の防備をしに来たのです。

当然織田信広はいつものように清洲城内に簡単に入城できるはずでした。

清洲城
清洲城

しかし信広がいざ入城しようとしたそのとき普段と異なり城門が固く閉ざされていることに気づきます。

さらに城下町の各家々まで門が固く閉ざされています。

また、いつも清洲城から織田信広を出迎えに来る佐脇という信長の家臣も現れません。

作戦が信長に露見していると気づいた信広は蒼白になって退散します。

一方で斎藤義龍ものろしの合図がいつまで経ってもあがらないため、作戦の失敗を悟って戦わずに美濃に引き返しました。

失敗
失敗

その後の織田信広は織田信長相手に開き直ってしまう。

その後、信広は開き直ります。

(俺は織田家の家督を継ぎたかったんだよ。いいじゃないか)という雰囲気でした。

そして信長と小規模な戦闘を幾度も繰り返します。

しかしすべて退けられると織田信広はやがて織田信長に降伏します。

降伏
降伏

降伏した織田信広には生命の危機が迫っていました。

信長を怒らせるとたとえ母が同じ弟であっても切腹させます。(織田信勝の例)

しかし織田信広の場合は意外な結末を迎えます。

弟は殺したけどお兄ちゃんは許す織田信長。

結局、織田信長は織田信広を許して再び配下に加えました。

信長が信広を殺さなかった理由として、以下の2つ理由があったといわれています。

理由
理由

1,切腹させた織田信勝(弟)は正室の子でしかも家臣からの信望も厚かったため信長にとっては家督を奪われるかもしれない明らかな脅威だった。

 しかし、織田信広(庶兄)は家臣からの信望も出自も信長にとって脅威ではなかった。だから殺さずに家来にして信長軍の戦力アップに使った方がメリットが大きかった。

2, 信長が幼い頃、父や兄が今川や松平と戦っている話を聞いて、幼い織田信長は凄いなー、と思っていた。だからお兄ちゃんの命は助けた。また、他のたくさんの兄弟からも庶兄を助けるように助言を受けた。

結果的に命拾いをした織田信広は、織田信勝のように織田信長に対して再び謀反を起こすことはなく生涯弟の信長に忠誠を誓いました。

織田信広のその後

その後
その後

織田信広は連枝衆として信長の天下統一を助けました。

ざっくりと言えば連技衆とは織田家の一族のことです。

織田信広は華々しい戦功をあげることはありませんでしたが、織田家の庶兄という立場から他の人にはできない活躍します。

具体的には朝廷との折衝役や、連枝衆のまとめ役です。

山科言継(やましな ときつぐ)や吉田兼見(よしだ かねみ)や一条内基(いちじょう うちもと)といった公家(公卿)たちとも交流を持ちました。

この3人の具体的な役職はそれぞれ(権大納言神祇大副兼左兵衛督関白)と大物揃いです。

そんな人物の相手が兄なら務まると織田信長は判断して信頼を寄せていました。

しかし1574年の長島の一向一揆攻めの際に敵の武将(大木兼能:のちの加藤清正の部下で江戸時代まで生き残る)との一騎打ちに敗れ織田信広は本能寺の変の8年前に戦死しました。

織田信長の兄クイズに挑戦

織田信長の兄クイズに挑戦してみましょう。

クイズ

織田信長の兄(庶兄)の名前は?
織田信長の兄が裏切った時に乗っ取る予定だった城は?
謀反を起こした織田信長の兄の結末は?
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参考文献。日本大百科全書。世界大百科事典。日本国語大辞典。国史大辞典。日本人名大辞典。日本大百科全書。他、図書館の多数の書籍。

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