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織田信長の鉄甲船とは?
鉄甲船とは、第二次木津川口の戦いで織田信長が使用した日本初の鉄の装甲を持つ船です。
第一次木津川口の戦いでは織田水軍は毛利水軍に普通の船で挑み、惨敗していました。
と感じだ織田信長は毛利水軍に勝つための最強の船を建造することにします。
それが部下の九鬼嘉隆に作らせた有名な鉄甲船です。
鉄甲船の建造に際して織田信長は以下の能力を要求しました。
・毛利水軍の焙烙(手榴弾のような敵の船を燃やす兵器)からの防御。
・大筒(大砲)3門を搭載可能な船にすること。
・少数の船で毛利水軍の撃破を可能にすること。
この要求に応えて九鬼嘉隆は6隻の鉄甲船を建造します。
このとき独創的なアイディアが発揮され、日本史上初めて船が鉄の装甲で覆われます。(世界史上初とも)
鉄板を船に貼り付ける際には鉄砲の製造技術を応用して【西洋式のネジ】が使われたとされています。
完成した鉄甲船は上記の3つの条件をクリアすることができていました。
織田信長が鉄甲船を建造した理由。
鉄甲船の建造には巨額の費用が必要となります。
それでも織田信長は鉄甲船を建造しました。
当時無敵とされていた毛利水軍にどうしても勝利しなければならない理由があったからです。
その理由とは
兵糧攻めの対象である石山本願寺に、毛利水軍が海から兵糧を運ぶのを阻止したかった。
からです。
当時織田信長は宿敵である大坂の石山本願寺を兵糧攻めしていました。
しかし海からどんどん追加で石山本願寺に兵糧が運ばれてしまうのならば、兵糧攻めの意味がありません。
これを阻止するために一度、織田信長は大阪湾で第一次木津川口の戦いを毛利水軍と行っていますが、前述のとおり織田水軍が惨敗しています。
ここから逆転を期して織田信長は完成したばかりの鉄甲船を投入し、第二次木津川口の戦いに挑みます。
戦いの内容はシンプルで、6隻の鉄甲船を中心とする織田水軍と600艘以上の数を誇る毛利水軍による
質VS数の戦いです。
ただし織田水軍には毛利水軍は鉄甲船を初見というアドバンテージがありました。
午前8時に戦いが始まると、毛利水軍はいつものように織田水軍の大型船を多くの小型船で包囲します。
前回まではここから船を焼かれて織田軍が敗走してお終いでしたが、今回の織田水軍は燃えない鉄甲船を装備しています。
焙烙に怯えず織田水軍は鉄甲船の周りにあえて毛利水軍の船を近づけさせました。
そして十分に至近距離になってから大筒(大砲)を放ち敵船を沈没させます。
間近で放たれる鉄甲船6隻の合計18門の大筒の威力はすさまじいものでした。
毛利水軍は恐れをなして18門の大砲から距離を取ろうと大慌てで撤退しました。
こうして織田信長の水軍が勝利を収めました。
鉄甲船の特徴とその後
鉄甲船の特徴
鉄甲船の特徴の長所としては前述の通り燃えないことや大砲を装備していることが挙げられます。
このように鉄甲船は一見無敵に見えますが短所もあります。
鉄甲船の特徴の短所は建造費用が高いことや、鉄で重いため速度が遅いことや、鉄がさびやすいことなどが挙げられます。
特に海水・塩水による劣化は深刻で鉄甲船は長持ちしませんでした。
鉄甲船のその後
織田信長の鉄甲船のその後には諸説があります。特に有名な3つの説は以下になります。
・解体されて小舟が作られた。
・本能寺の変後も放置されて朽ち果てた。
・信長の死後、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合の戦いに使用されたが沈没した。
どの説も詳しい記録が残っておらず断定できるものではありませんが、いずれにせよ鉄甲船は織田信長が没するのと前後して姿を消しました。
まとめ。鉄甲船が織田信長や毛利水軍に与えた影響。
当時無敵を誇っていた毛利水軍は鉄甲船と対面して敗北したことにより近畿圏での名声を下げてしまいます。
毛利水軍が無敵のままなら毛利軍側につく武将が多く織田軍の苦戦が続くはずでした。
しかし実際には毛利水軍の敗北後、徐々に情勢が変化していきます。
宇喜多氏が織田側につくようになり、反信長勢力も滅ぼされ大坂周辺からいなくなります。
やがて淡路島の児玉就英が無断撤退し、石山本願寺もついに2年後に織田信長に降伏します。
もし鉄甲船により織田軍が毛利軍を倒したという事実がなければ、毛利軍に味方する武将が史実よりも増え、織田軍に従う武将が減っていたかもしれません。
そうなると織田軍の地上戦も上手くいかず石山本願寺は降伏しなかったかもしれません。
あるいは石山本願寺が降伏したとしても、史実よりももっと何年も先のことになっていたかもしれません。
その意味で織田信長が毛利水軍を打ち破るために鉄甲船を発明したことは歴史的な出来事でした。
参考文献。世界大百科事典。国史大辞典。他
悔しい