朝倉義景の年表
(以下、年齢は数え年になります)
【数え年とは】
西暦 | 出来事 | 年齢(数え年) |
1533年 | 越前の朝倉家の嫡男として生まれる。 幼名は長夜叉。 | 1歳 |
1548年 | 父の朝倉孝景56歳でが他界する。 朝倉家の第10代当主の父の跡を継いで朝倉家の第11代当主となる。 この頃、朝倉義景はまだ【朝倉延景】を名乗っていた。 越前の国主としての活動を始める。 若年だったため従曾祖父(曾祖父の弟)の朝倉宗滴の補佐を受ける。 | 16歳 |
1552年 | 今までは朝倉延景と名乗っていたが、 第13代将軍、足利義輝から義の字を授かり、朝倉義景に改名する。 | 20歳 |
1555年 | 長年に渡り朝倉家を支えていた朝倉宗滴が79歳で死去。 実績のある頼れる人物であったため、朝倉家にとって損失となる。 | 23歳 |
余談 | 正確な時期は不明ながら、1556年以降のどこかの時期で明智光秀が朝倉義景に仕えたとの説がある。 朝倉義景は明智光秀の鉄砲の腕前を褒めたという。 | 余談 |
1561年 | 大規模な犬追物を行う。(騎馬で犬を追い弓で射る競技) 御供した家臣は1万人以上。 見物人は数えきれないほど。 場所は坂井郡棗庄大窪の浜(福井市三里浜) 朝倉義景は小笠原流弓術の達人であったため、立派な腕前を見せる。 | 29歳 |
1562年 | 大覚寺の門跡の義俊が越前を訪れる。 この人物は身分の高い僧で、関白・近衛尚通の子として生まれた人物でもあった。 朝倉義景は盛大な曲水の宴を開いて饗応する。 曲水の宴とは、水の流れのある庭園などでその流れのふちに出席者が座り、 流れてくる盃が自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を読み、 盃の酒を飲んで次へ流し、別堂でその詩歌を披講するという行事。 | 30歳 |
1565年 | 第13代将軍、足利義輝が三好家に弑逆されて死去。 弟の覚慶が還俗して足利義秋を名乗る。 | 33歳 |
1566年 | 足利義昭は近江から若狭を経て越前に入る。 | 34歳 |
1567年 | 有力家臣の堀江景忠の謀反を鎮圧。 足利義秋を安養寺御所に迎え入れる。 足利義昭の仲介で長年の宿敵である加賀の一向一揆と和議を結ぶ。 | 35歳 |
1568年 | 隣国の若狭国では守護の武田家で父と子の一族争いが起きていた。 子が勝利するが、彼はやがて死亡。彼の子供(武田元明)が跡を継ぐが、若狭国が一層混乱する。 朝倉義景は隣国若狭国の守護、武田元明を保護するという名目で一乗谷城に連行。 以後、朝倉家は若狭国の一部を除いて手中に収めた。 武田家の旧臣の一部は朝倉家には従わずに織田家や足利家に仕える。 足利義秋が朝倉義景(管領代相当)の加冠によって元服する。 足利義秋を改めて足利義昭を名乗る。 朝倉義景の嫡男の阿君丸が死去する(毒殺?) 息子の死を嘆いている朝倉義景の情けない姿を見て、上洛を望んでた足利義昭は岐阜の織田信長のもとへと去る。 織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たす。 | 36歳 |
1569年 | 正月、織田信長が足利義昭を利用して上洛を促してくるが断る。 | 37歳 |
1570年 | 織田信長が敦賀群の金ケ崎城と手筒山城の攻撃を開始する。 しかし朝倉義景は一乗谷の騒動を理由に援軍を送らない。 両方の城が落城する。 浅井長政が織田信長を裏切り朝倉家の味方になる。 織田信長が撤退、浅井・朝倉との戦いに備える 姉川の戦い勃発。浅井・朝倉軍が敗退。 その後、朝倉義景が自ら出陣した志賀の陣で織田信長を追い詰める。 (志賀の陣:浅井・朝倉・大坂本願寺・比叡山延暦寺・三好氏・六角氏残党・伊勢長島の一向一揆VS織田 という織田家に不利な局面での、浅井・朝倉・延暦寺と織田軍との対峙) しかし、織田信長と停戦して越前へと引き上げる。 | 38歳 |
1571年 | 志賀の陣で朝倉家に味方した比叡山延暦寺を信長が焼き討ちにする。 | 39歳 |
1572年 | 浅井氏を救援するために自ら出陣して小谷城に軍を入れる。 小谷城本城や山崎丸に本陣を置き織田軍と対陣する。 しかし積雪を理由に撤退する。このことを武田信玄に非難される。 | 40歳 |
1573年 | 自ら出陣して小谷城の浅井家を救援、信長と戦うも敗色濃厚となり撤退する。 撤退時に織田軍の追撃に遭い惨敗する。(刀根坂の戦い) 居城の一乗谷城に逃げ帰った頃には逃亡兵が相次ぎ家臣は十名前後しかいなかった。 家臣の朝倉景鏡の勧めに従い、一乗谷城から賢松寺に逃れる。 しかし朝倉景鏡の裏切りに遭い自害する。 享年41歳 | 41歳 |
朝倉義景とは?
朝倉義景は1533年に越前の国主の朝倉孝景の嫡男として生まれる。(1歳)
体調を崩して他界した父の跡を継いで11代目朝倉家当主となる。(16歳)
若年だったため、曾祖父の弟、朝倉宗滴の補佐を受ける。
この頃の朝倉義景はまだ【朝倉延景】を名乗っていた。(16歳)〈再〉
第十三代将軍、足利義輝から義の一字を授かり朝倉義景に改名する(20歳)
長年に渡り朝倉家を支えてきた実績のある、最も頼れる一族であった朝倉宗滴が79歳で死去。
朝倉家にとっての損失となる。この頃から朝倉義景が政治・軍事を一人で動かす。(23歳)
盛大な【犬追物】(犬を騎馬で追いかけて射る競技)を行う。御供は1万人以上。(29歳)
30代から、歴史的な出来事にかかわる。
まず、1566年に朝倉義景が足利義昭を領内に保護する。足利義昭は上洛を望んでおり、一万人以上の兵力を動かせる大名である朝倉義景の支援を期待していたからとされる。(34歳)
しかし息子の死を嘆いている朝倉義景の情けない姿を見て、朝倉義景では上洛を望めないと判断した足利義昭は岐阜の織田信長のもとへと去る。(36歳)
また、同時に朝倉家に仕えていた明智光秀も足利義昭に従って織田信長のもとへと向かったとされる。
朝倉義景は織田信長と敵対し、1570年から織田軍と本格的に交戦を開始する。しかし姉川の戦いで敗北する。(38歳)
1573年織田軍に敗北して賢松寺に逃れるも、一族の朝倉景鏡の裏切りに遭い、朝倉義景は切腹した。(享年41歳)
【詳細は上記の年表を参照】
朝倉義景の評価
一般的には文化を好み、武将としては力不足であったかのように語られる。
これは1570年(38歳の時)の志賀の陣で織田軍を徹底的に攻めなかったことや、
志賀の陣とは、浅井・朝倉・大坂本願寺・比叡山延暦寺・三好氏・六角氏残党・伊勢長島の一向一揆VS織田
という織田家に不利な局面での、浅井・朝倉・延暦寺と織田軍との対峙)
1572年(40歳の時)も織田軍を攻めずに積雪を理由に引き上げたこと、姉川の戦い(38歳)などの数々の戦いで織田軍に敗れたことが原因とされる。
一方で織田信長が強大すぎただけで、朝倉義景という武将は平凡かそれ以上の人物で、決して無能ではないという、朝倉義景をひいきした解釈もある。
そのあたりの解釈は人それぞれであり正解を決めることは難しい。
参考文献。日本大百科全書。世界大百科事典。日本国語大辞典。国史大辞典。日本人名大辞典。日本大百科全書。他、図書館の多数の書籍。
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